新刊紹介・他
2017年 12月 04日
10日ぶりです。時間のたつのは早いもので、気がついたら師走ですよ。今年中にあれとかこれとか何とか……といううちにどんどん時間は過ぎていきます。体力は年々低下する一方だというのにね! ごめんなさい、うん。
そして、魔弾の最終巻や画集の感想、いただいています。本当にありがとうございます。いろいろなところで何度も書いていることですが、6年半もの間、よくつきあってくださいました。6年半といったら中学1年生が高校卒業しちゃってるからね。読者のみなさまにとっても長い戦いだったと思います。
まだ書きたいことがあるといえばありますが、必要なことは書ききったという思いも同時にありまして。魔弾はこれにて完結です。あらためて、ありがとうございました。
で、そんな感じで先月下旬から10日も過ぎていればそりゃあ次々に新刊も出ているってものでして、まずはそちらの紹介をば。
瀬尾つかさ いつかのクリスマスの日、きみは時の果てに消えて
ニートの少女(17)に時給650円でレベル上げさせているオンライン
左は先月末にファミ通文庫から、右は今月初めにスニーカー文庫からでございます。同じ人間が書いているのにタイトルがこうも両極端なのは小説の面白さのひとつでしょうね。ファミ通から出ているものはいわゆる過去に戻ってある出来事をやり直すSF、もうひとつは、うん、まあタイトル通りの話だね。興味がありましたら是非。
さて。だいたい一ヵ月前の話なんだけど、覚えてるかな。僕は忘れていました。
昔話のいいところは、一ヵ月前にネタにしたものでも風化しないところですね。なにせブツによっては二千年前から存在するからね!
面の皮を鉄っぽくして、それではイソップより「酸っぱい葡萄」です。「狐と葡萄」と呼ばれることもありますかね。
一匹の狐が、おいしそうな葡萄がツタから下がっているのを見つける。食べようとして何度も跳びあがるものの、どうやっても届かず「どうせこんな葡萄は酸っぱいに決まっている」と捨て台詞を吐いて去っていくという話です。
台持ってこいや、台。
同じイソップの話の中に、水が少ししか入っていない壺の中に石を次々に放りこんで水かさを増し、悠々と水を飲んだカラスのエピソードがありますが、その話とまるで対照的です。わかりやすさを求めて簡略化したものと思われますが、狐はただ跳びあがっているばかりです。台を用意する、大型の動物を誘導してその背中に乗る、石をくわえて首を振ってその遠心力で打ち落とす……。いろいろと手はありそうなものなのに。
狐というと、おとぎ話や童話では知恵者の役目を割り振られることが多い印象ですが、この狐は正反対。愚直そのものです。
どんなに望み、力を尽くしても手に入らないものというのは、たしかにあります。
僕もかれこれ38年ぐらい生きてますが、いろいろなものを諦めてきました。そして、このお話のように自分にとっては必要なかったのだと考えるようにしたこともあります。もっとも、けっこうな過去になってから冷静に振り返り、あるいは他の手があったのではないか、と考えることができるようになったのも確かでして。
この狐のお話が伝えたいことは、世の中には手に入らないものがあり、それを「自分にとって必要ない」と割り切ることで心の平安を得ることがある、というものなのでしょうか。ひとつの努力に邁進し続ける姿勢の危うさをこそ、説いているのではないか。
ひとつのことを徹底してやり抜く。やり続ける。その姿勢を尊しとする言葉はいくつもあります。継続は力なり、がそうですし、石の上にも三年、も該当するでしょうか。ですが、それらの言葉において、正しい行動をとるのは、言うまでもないこととして考えられているのではないでしょうか。
狐が他の手に訴えていたら、その先にはまた別のお話があったのかもしれません。
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そして、魔弾の最終巻や画集の感想、いただいています。本当にありがとうございます。いろいろなところで何度も書いていることですが、6年半もの間、よくつきあってくださいました。6年半といったら中学1年生が高校卒業しちゃってるからね。読者のみなさまにとっても長い戦いだったと思います。
まだ書きたいことがあるといえばありますが、必要なことは書ききったという思いも同時にありまして。魔弾はこれにて完結です。あらためて、ありがとうございました。
で、そんな感じで先月下旬から10日も過ぎていればそりゃあ次々に新刊も出ているってものでして、まずはそちらの紹介をば。
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左は先月末にファミ通文庫から、右は今月初めにスニーカー文庫からでございます。同じ人間が書いているのにタイトルがこうも両極端なのは小説の面白さのひとつでしょうね。ファミ通から出ているものはいわゆる過去に戻ってある出来事をやり直すSF、もうひとつは、うん、まあタイトル通りの話だね。興味がありましたら是非。
さて。だいたい一ヵ月前の話なんだけど、覚えてるかな。僕は忘れていました。
昔話のいいところは、一ヵ月前にネタにしたものでも風化しないところですね。なにせブツによっては二千年前から存在するからね!
面の皮を鉄っぽくして、それではイソップより「酸っぱい葡萄」です。「狐と葡萄」と呼ばれることもありますかね。
一匹の狐が、おいしそうな葡萄がツタから下がっているのを見つける。食べようとして何度も跳びあがるものの、どうやっても届かず「どうせこんな葡萄は酸っぱいに決まっている」と捨て台詞を吐いて去っていくという話です。
台持ってこいや、台。
同じイソップの話の中に、水が少ししか入っていない壺の中に石を次々に放りこんで水かさを増し、悠々と水を飲んだカラスのエピソードがありますが、その話とまるで対照的です。わかりやすさを求めて簡略化したものと思われますが、狐はただ跳びあがっているばかりです。台を用意する、大型の動物を誘導してその背中に乗る、石をくわえて首を振ってその遠心力で打ち落とす……。いろいろと手はありそうなものなのに。
狐というと、おとぎ話や童話では知恵者の役目を割り振られることが多い印象ですが、この狐は正反対。愚直そのものです。
どんなに望み、力を尽くしても手に入らないものというのは、たしかにあります。
僕もかれこれ38年ぐらい生きてますが、いろいろなものを諦めてきました。そして、このお話のように自分にとっては必要なかったのだと考えるようにしたこともあります。もっとも、けっこうな過去になってから冷静に振り返り、あるいは他の手があったのではないか、と考えることができるようになったのも確かでして。
この狐のお話が伝えたいことは、世の中には手に入らないものがあり、それを「自分にとって必要ない」と割り切ることで心の平安を得ることがある、というものなのでしょうか。ひとつの努力に邁進し続ける姿勢の危うさをこそ、説いているのではないか。
ひとつのことを徹底してやり抜く。やり続ける。その姿勢を尊しとする言葉はいくつもあります。継続は力なり、がそうですし、石の上にも三年、も該当するでしょうか。ですが、それらの言葉において、正しい行動をとるのは、言うまでもないこととして考えられているのではないでしょうか。
狐が他の手に訴えていたら、その先にはまた別のお話があったのかもしれません。
おはようございます。国外の昔話というと、酸っぱい葡萄がありますが、狐は自分が取れなかったからこの葡萄は酸っぱいと決めつけるより、努力の方向性を見直した方がよかったように思われます。葡萄の自尊心をくすぐって低い位置まで下げさせるとか。自尊心は面倒ですね。それでは本日もお仕事に。
— 川口士 (@kawaguchi_tsu) 2017年10月28日
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by tsukasa-kawa
| 2017-12-04 23:59
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