一〇八(仮)

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ライトノベル作家川口士のブログです。「魔弾の王と戦姫」18巻、それから片桐雛太さんの魔弾画集、絶賛発売中です。よろしくお願いします。

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2017年 09月 26日 ( 2 )

9月26日のお話・2

 ひとりならぬ魔術師が、石臼の無慈悲な挽き音によって狂気に追いやられた。   『石臼』

 自分のペースで対戦相手のフレンズの手札をゴリゴリ削る! すごーい! たのしー! 僕は1枚しか持っていなかったので、もっぱらやられる方でしたけどね。ええ、MTG(マジック・ザ・ギャザリング)の話です。僕がMTGをやっていたのは第4版から第8版ぐらいまでだったかな。神河のときはもう完全に離れてたから……。
 話を戻しましょう。「塩吹き臼」です。他に「海の底の臼」「海の水はなぜ塩辛いか」などという題名で呼ばれることもありますね。MTGの石臼とは正反対の、ものを生みだす石臼の話です。

 昔々、あるところに百姓の兄弟がいた。弟は貧しく、年越しのために兄のもとへ米を借りに行くが、けんもほろろに追い返される。
 その帰りに弟はひとりの老人に出会い、親切にすると麦饅頭をもらう。そして、弟は老人に言われた通り森に行って小人に会い、麦饅頭と石臼を取り替えてもらう。
 弟は老人に使い方を教えてもらい、家に帰って石臼を回す。石臼からは「出ろ」と念じたものが米でも金でも服でも何でも出てくる。
 弟は妻とともに幸せな新年を迎え、多くのひとを呼ぶ。その席に呼ばれた兄は、弟の石臼に気づき、こっそり盗んで海へと逃げる。
 兄はまず石臼から菓子を出して食べ、それから塩がほしくなったので塩を出す。ところが止め方を知らなかったため、あふれた塩が小舟ごと兄を沈めてしまう。
 石臼も海の底に沈み、壊れる瞬間まで塩を出し続けた。それによって海の水は塩辛くなった。

 このお話は、北欧に原型と思われる民話がありまして、そのあたりから伝わり、アレンジされて今日に至るのではないかと。麦饅頭というのは、おそらくパンのことですね。小人というのも日本昔話では珍しい部類なのですが、それなら納得もできます。
 アレンジが容易だったのは、話の筋立てがわかりやすかったためでしょうか。欲張りな人間が不思議なものを手に入れて、使い方を誤り、痛い目に遭う。これまでに語ってきた中では「花咲か爺さん」の欲張り老夫婦がよく似た例ですね。
 そう、問題は使い方なのです。このお話も、バージョンによっては欲張りな兄と欲のない弟、のような性格上の対比がなされているものがあるのですが、兄は欲をかいたために破滅したのでしょうか。もとをただせば、という言葉をつければ、その解釈も成立するでしょう。
 兄が破滅したのは、石臼の使い方を知らなかったからです。「花咲か爺さん」の欲張り老夫婦が犬に嫌われたように。もしも兄が石臼を使いこなしていれば、別の国に渡って悠々自適の生活を送ったでしょう。

 目先の欲にかられた者は、視野が狭くなり、判断力が雑になりがちです。正しい使い方を知ろうとせず、考えようともせず、自分で乗りだし、結局はただの真似だけをして見事に失敗する。このお話の場合、長期的に利益を得ようと思えば、兄は弟に頭を下げてでも石臼の正しい使い方を教えてもらい、可能ならば弟に石臼を使わせ続けるべきだったのでしょう。自分で使うよりも確実ですから。

 欲は、社会を形成した生き物にとってもはや欠くことはできないものです。欲を捨てよという神仏の教えも、死後に救われたいという欲だけは決して捨てさせません。天国を伝え、極楽を伝え、死後の安寧を伝え、子孫の繁栄を伝えます。欲を否定することはできず、コントロールすることもまた難しい。
 ならば、欲に駆られてもなお、視野を広く持とうと努め、道具ならば、どのように使えばもっともよい結果を生むのか、考え続けるしかないのでしょう。ひとつ間違えれば、環境さえも一変してしまうことがあるのですから。 


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by tsukasa-kawa | 2017-09-26 23:48 | 日常雑記

9月26日のお話

 うさぎは寂しいと死んじゃうのよー。嘘です。
 世間は嘘ばっか! 知らず知らず、今を生きる僕たちのまわりには嘘があふれていて息が詰まりそうだ。なんて、ポエムのワンフレーズでも口ずさんでしまいそうですよ。
 ものの本によると、ペットとして飼っているうさぎを長期間放っておくと、放っておかれる→環境の変化(それまでかまってもらっていたのに、それが急になくなった)→ストレス→死、もしくは長期間放っておく→常に何か食べていないと胃腸の動きが停滞する→死、というプロセスらしく、おまえどれだけ打たれ弱いんだよという気になるのですが、うさぎを人間の基準で考えてはならんということでしょう。

 さて、今夜のお題は「因幡の白兎」です。もとは古事記に載っていた大国主命の逸話のひとつですが、いつしか昔話のひとつとして独立して知られるようになりました。昔話には、案外こういう例はあるんですね。たとえば「わらしべ長者」は今昔物語集に原話とおぼしきものが見られますし、「姥捨て山」も枕草子の中に記述が見られます。まあ能書きはこのぐらいにして、ざっとお話を見ていきましょうか。

 一匹の兎が、海を渡って島へ行こうと考え、海岸からサメに呼びかける。「自分たちとあなたたちと、どちらの同族がより多いのかくらべよう。できるかぎり同族を集めて、ここからまっすぐ並んでみてくれないか」
 サメは兎の話に乗って、同族を集めて海面にずらっと並ぶ。兎はサメを数えるふりをして目的の島へ渡るが、島に着く直前に「もとよりくらべるつもりはない。海を渡るためにおまえたちを騙したのだ」と、暴露する。
 兎はサメに毛皮をはぎとられて、地面に転がされる。
 そこに旅人が来て、海水で身体を洗って風で乾かせと教える。その言葉に白兎は従うが、身体の痛みはひどくなるばかり。
 そこに別の旅人が来て、川の真水で身体を洗い、蒲の穂綿にくるまって休めばよくなると教える。その言葉に従うと、白兎は回復した。

 騙される方が悪いんだよバァァカ!(堺雅人の顔と声で)
 兎はまずサメを騙したあとにボロを出して痛い目を見たあと、騙されてさらに痛い目を見ます。こう言ってはなんですがドジっ子です。おっちょこちょいです。デスノートを持たせたら相手の名前を書きこみ終わる前に僕がキラだぴょーんとか言いそうな危うさです。騙されたときは満身創痍だった点を割り引いて考えるとしても、サメにぼこぼこにされるのはさすがにいただけない。
 兎がどうすればよかったのかを論じるのは、不毛でしょう。少なくとも、安全な場所を確保してから事実を告げればよかったのですから。
 もっとも、これほどひどい失敗ならば「嘘をつくのはよくない」と思うひとは意外にいないかもしれません。それ以上に「下手なことしたなあ」という印象が強いからです。もっと上手くやれば、と思うひとはいるのではないでしょうか。
 嘘をつくのは、基本的にはよくないことでしょう。肯定できる嘘は非常に少ない。嘘をつかずにすむ人生を送れるのなら、それはとてもすばらしい。
 ですが、これは嘘をついた方がいい、本当のことを言わない方がいい、という状況に遭遇したことはないでしょうか。また、変則的ながら、嘘をついたことで罪悪感を抱いたり、嘘によって失敗や屈辱的な体験をしたりして、それが成長の糧になったことは。
 嘘や詐欺師に関するエピソードは、紀元前からいくらでもあります。二千年以上前から、人間は嘘と隣り合わせで生きてきたのです。重ねて言いますが、肯定できる嘘は少ない。嘘をつかれて気分のいいひとはいないでしょう。サメや、また白兎のように。
 しかし、嘘と隣り合わせで生きる以上、上手な嘘のつきかたや、嘘の見抜き方は、どこかで多少なりとも学ぶ必要があるのでしょう。やはり、相手に気づかせない嘘こそが最上でしょうか。嘘だけど。



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by tsukasa-kawa | 2017-09-26 00:48 | 日常雑記