一〇八(仮)

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ライトノベル作家川口士のブログです。「魔弾の王と戦姫」18巻、それから片桐雛太さんの魔弾画集、11月25日発売です。よろしくお願いします。

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9月30日のお話・2

「狐はね、油揚げがとくに好物っていうわけじゃないんだよ。根が雑食だし、お供え物という形でただでもらえて、食べられないってほどじゃないから食べるだけでね。だから、おばあちゃんがあの糞嫁早くくたばらないかねえなんて思いながらうっかり醤油をどばどばぶちこんじゃった稲荷寿司をお供えしちゃいけないよ。わかったかい」「ばあちゃーん! 村で飼ってるお狐様が! お狐様が! ばあちゃーん!」
 ずいぶん昔に聞いたおばあちゃんの知恵袋を書き綴ったところで、こんばんは。虫たちがささやかに鳴く秋の夜長、いかがお過ごしでしょうか。それでは「狐の嫁入り」を、といきたいところですが、この話、いくつかありましてですね……。

・夜、男が通りを歩いていると、遠くに嫁入り行列を思わせる無数の灯火が見える。あれが噂に聞く狐の嫁入りかと思いながら歩いていると、いつのまにか町外れの泥の溜まりの中に座りこんでいた。狐に化かされたのである。

・ある男が山の中で怪我をしていた狐を助ける。男は山を下りようとしたら迷ってしまい、一軒の家を見つけて泊めてもらう。そこの娘に気に入られ、夫婦の契りをかわして三年ほど暮らしたあと、村にいる親のことが気になって下山する。すると、自分が山に入ってから三日しか過ぎていなかったことを知らされる。狐に化かされたのである。

・ある男が、山中で嫁入り行列を見かける。嫁が木の陰に隠れたかと思うと、一瞬できれいな装いをして現れる。これは噂に聞く狐の嫁入りではないかと男は思い、こっそりあとをつけていく。やがて嫁入り行列は大きな屋敷に入っていき、男は煙管を吸いながら屋敷の中を覗き見ようとする。そこで景色が変わり、屋敷は消え、男の目の前には石灯籠しかなかった。狐に化かされ、煙管の煙で我に返ったのである。

・日照りの続く村が、生け贄を捧げて雨乞いをしようと考える。村一番の美丈夫が、人間に化けることのできる狐の娘をだまして嫁入りさせる。嫁入りによって村の人間という扱いになり、生け贄に使えるようになったのだ。男は狐に好意を抱き、事情を話して逃げるように言うが、狐もまた男に好意を抱いており、生け贄となる。村には雨が降り、男は涙を流した。

 狐につままれたような感じとはこのことだね! もうさ、バリエーションがどうのとか、地域ごとに違いが、とかじゃないですよ。「狐」「嫁入り」「化かす」で三題噺でもやってるんじゃないのこれ。しかも、これらひとつひとつにまたバージョン違いがあってさあ……。
 まあ、狐を神の使いと見做す信仰って平安時代からあるものねえ。安倍晴明の母親が狐だという逸話もあるし、それこそ地域ごとに狐のお話が生まれて語り継がれていてもおかしくないので……。

 ひとつひとつを語る余裕はさすがにないので、いちばん最初のものだけに絞らせていただきます。狐に化かされる話としては、もっともオーソドックスだと思うし。
 昔は、嫁いできた嫁を、夜に提灯を連ねた行列で迎えるのが一般的だったのですね。そこから嫁入り行列という言葉ができて、夜に提灯のような明かりがずらっと並んでいると、そう思われたわけです。この風習は昭和まで残っていたらしく、語り継がれてきたのはそのあたりにもあるのかもしれません。

 狐の嫁入りの形式が、人間のそれとはたして同じなのかという疑問はありますが、信仰に至るほどに、人間の生活の中で狐は身近な存在でした。狐の側が人間の風習を取り入れたと考えることは可能でしょう。群れではなく家族単位で暮らし、自立が早い狐に嫁入りの概念があるかといえば、子育てを夫婦で行うあたり、婿が嫁を大事にするのはたしかなようです。ならば、嫁を迎えいれるときも婿なりに祝ったとみていい。
 そんな狐の嫁入り行列を見た男が、ほどなくして化かされる。泥にはまる以外に、川に落ちてしまうものもあれば、持っていた食べものをいつのまにか奪われていたというものもあります。特徴としては、それほど深刻な被害を受けていないところでしょうか。そのため、笑い話ですんでいる節があります。
 嫁入り行列が幻であり、化け狐が人間をからかったという可能性はもちろんあります。あるいは、それが大半かもしれません。
 ですが、上にも書いたように、狐にとっても人間は身近な存在ではありました。完全な友好関係ではなかったでしょうけれども、敵対関係というわけでもありません。自分たちの祝いの場に通りかかった人間を、ちょっとした余興に巻きこんだと考えてみてもよさそうです。


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by tsukasa-kawa | 2017-09-30 23:58 | 日常雑記

9月30日のお話

「突然ですがクイズです。特殊能力を見世物にして民衆をおおいに楽しませ、最後にはタヌキの姿を捨てて人間社会に溶けこんだタヌキのお話といえば?」「分福茶釜?」「いいえ、平成狸合戦ぽんぽこです」
 タヌキだってがんばってるんだよォ。まあ人間と戦うのであれば、やはり物理的な攻撃方法は必要でしたね。具体的には絶 天狼抜刀牙とか。分類上はネコ目イヌ科なんだし(でもタヌキ属です)。
 ぽんぽこについてはこれぐらいにしておくとして、更新が遅れてしまっていることですし(ごめんね。仕事がね)「分福茶釜」まいりましょうか。ぶんぶくちゃがま、ぶんぷくちゃがまのどちらで呼んでもよいみたいです。

 ある日、古道具屋が和尚様からひとつの茶釜を買い取る。その茶釜に水を入れて火にかけると、茶釜に化けていたタヌキが熱さに耐えかねて正体を見せる。
 正体といってもタヌキの胴体は茶釜のままであり、そこから頭と四肢が出ているような姿をしている。
 タヌキは仲間との化け比べで元に戻れなくなり、ひとまず茶釜を装って戻る方法をさがしていると説明し、同情した古道具屋は店に置いてやることにする。
 タヌキはお礼にと、綱渡りをする茶釜という見世物で民衆を楽しませ、古道具屋は豊かになる。

 傘をさし、あるいは扇子を開きながら綱渡りをする茶釜タヌキの挿絵を、どこかで見た方もいるのではないでしょうか。バージョンによっては火にかけられた時点で逃げだしてしまって話が終わるとか(言われてみればわからんでもない)、結局タヌキは茶釜から元に戻れず死んでしまい、和尚様に供養されるというものもあるようです。逃げだしてしまったものを除いて、タヌキが元の姿に戻ることができたというものはありません。
 民衆を楽しませ、古道具屋に楽をさせてあげたのですから、昔話のセオリーに従うなら元に戻ることができていいはずです。なぜ、そうならなかったのでしょうか。

 和尚のもとから逃げだした話を除けば、タヌキは古道具屋に居続けます。古道具屋が引き留めたとか、何らかの手段で逃げられないようにしたという話は見当たらなかったので、タヌキ自身の意思で留まったと思われます。
 このタヌキはただのタヌキではなく、化け狸です。
 おそらく、この種の特殊な存在は、正体を知られたら人里に居続けることができないのでしょう。これまでの昔話を振り返っても、舌切り雀はお爺さんに飼われている間はただの雀で通していましたし、花咲か爺さんに出てくる犬はすぐに命を落とし、犬でないものになります。
 古道具屋のもとに留まり続けることを選ぶなら、タヌキは正体を隠し続けることのできる茶釜の見世物に徹するしかなかったのでしょう。
 茶釜以外のものにならなかったのも、茶釜という見世物として受け入れられてしまったためかと思われます。別のものに化ければ、正体を知られてしまうかもしれない。また、儲けることができなければ、やはり古道具屋のもとにはいられない。タヌキは、店に置いてもらうことをそう捉えていたと思われます。リスクをとって大胆に方向転換などと、口で言うのは簡単ですが、当事者になるとそれが難しいのは現代にかぎったことではありません。受け手がよく知られているものに親しむのも当然のことです。
 タヌキは茶釜から引き返せなくなりましたが、本来のものではないスタイルで溶けこむというのも、なかなかしんどいものだということでしょうか。



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by tsukasa-kawa | 2017-09-30 13:08 | 日常雑記

9月28日のお話

 拍手レス
>スーパーピンチクラッシャーの突然の登場にちょっと笑ってしまいました。せめて当時の概念に存在しそうな物を呼びましょう。正義の山姥とか呼んで対消滅させると良かったかもしれません。
 オルタレイションですら5年も前だというのにわかるひとがいるとは……! 正義の山姥が出てくると、小坊主がバトル漫画における解説者ポジになりそうですね。当時の概念でいうと、他には神仏や龍などが考えられますが、小坊主のレベルを考えるならたしかに山姥あたりが妥当でしょうか。

 さて、突然ですがクイズは好きですか? 「俺の名を言ってみろ」「ジャ(銃声)」「ざんねーん。正解はケンシロウでしたー」みたいな。僕も小さなころはクイズダービーやSHOWBYショーバイ、アタック25、100人に聞きました、などを観ていたものです。
 昔話にも、相手に対してクイズ、いわゆる謎かけをする内容のものがあります。そのひとつである「大工と鬼六」いってみましょうか。

 昔々、あるところに流れのたいそう速い川があった。大工が何度も橋を架けたが、すぐに流されてしまう。
 困り果てて川辺に立ち尽くしていた大工の前に、ひとりの鬼が現れる。鬼は、自分なら一晩で頑丈な橋を架けられると言い、おまえを喰らうのと引き替えにやってやると提案する。
 大工はやれるものならやってみろという気持ちでその提案を呑むが、翌日にはもう橋が半分できていた。
 明日にはおまえを喰らうと言う鬼に、大工は必死に懇願し、鬼は橋の完成までに自分の名前を当てることができたら喰らうのを諦めると言う。
 困り果てて大工が山の中を歩いていると、鬼の子供が子守歌を歌っているのを見つける。その子守歌の内容から、大工は鬼の名前が鬼六であることを知る。
 翌日、大工が鬼の名前を言い当てると、鬼は川に沈んで二度と姿を見せず、橋はどんな大雨でも流されることはなかった。

 怪異が人間に謎かけをして、解けなかった場合に代償を求める。外国産だとスフィンクスの逸話が有名でしょうか。
 なんで名前を当てられたぐらいで、という疑問はあるでしょうが、名前を大事にし、家族など特定の人物にしか教えないという文化は世界各地にあったのです。日本においても、わかっているかぎりでは平安時代のころからありました。幼名と元服後とで名前を変えていたのも、本当の名前を隠すためだという説があります。本当の名前、真の名を知られるというのは、命をつかまれるに等しいぐらいのものだったのでしょう。恋姫夢想でも真名を大事にしていますしね。

 しかし子供に何歌わせとるんですか、鬼六さん。子供を遊ばせてなければただ働きをせずにすんだのに……といいたいところですが、このお話もバージョンはいろいろありまして。鬼六が命までは取らずに目玉を要求するものから、大工が鬼六の名前を知る方法が、村に伝わる歌や、自分の妻が子供に聴かせてやる子守歌、山の中で鳥が歌っていた歌など、さまざまです。
 大工はとにかく何らかの手段で鬼六の名を知ってしまうのです。知られないようにするという方法は、おそらく無理でしょう。
 ならば、その逆をいくしかありません。せっかく鬼六なのですから、山の鳥には鬼五と歌わせ、子守歌には鬼四と吹きこみ、村に伝わる歌には鬼三と言い、大工の前に現れるときにはうっかり大量の名札を落とすなどの手を打つのです。デマを振りまくというのは情報戦において有効な手ですからね。 

 それにしても、こうして後の世に話が伝わったとき、大工は名前のないただの大工として語られ、鬼は鬼六という一個人として語られる、というのは何とも不思議な感じを与えてくれます。名前を大事にする文化の中ではそれが正しかったのだとしても。
 


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by tsukasa-kawa | 2017-09-28 10:52 | 日常雑記

9月26日のお話・2

 ひとりならぬ魔術師が、石臼の無慈悲な挽き音によって狂気に追いやられた。   『石臼』

 自分のペースで対戦相手のフレンズの手札をゴリゴリ削る! すごーい! たのしー! 僕は1枚しか持っていなかったので、もっぱらやられる方でしたけどね。ええ、MTG(マジック・ザ・ギャザリング)の話です。僕がMTGをやっていたのは第4版から第8版ぐらいまでだったかな。神河のときはもう完全に離れてたから……。
 話を戻しましょう。「塩吹き臼」です。他に「海の底の臼」「海の水はなぜ塩辛いか」などという題名で呼ばれることもありますね。MTGの石臼とは正反対の、ものを生みだす石臼の話です。

 昔々、あるところに百姓の兄弟がいた。弟は貧しく、年越しのために兄のもとへ米を借りに行くが、けんもほろろに追い返される。
 その帰りに弟はひとりの老人に出会い、親切にすると麦饅頭をもらう。そして、弟は老人に言われた通り森に行って小人に会い、麦饅頭と石臼を取り替えてもらう。
 弟は老人に使い方を教えてもらい、家に帰って石臼を回す。石臼からは「出ろ」と念じたものが米でも金でも服でも何でも出てくる。
 弟は妻とともに幸せな新年を迎え、多くのひとを呼ぶ。その席に呼ばれた兄は、弟の石臼に気づき、こっそり盗んで海へと逃げる。
 兄はまず石臼から菓子を出して食べ、それから塩がほしくなったので塩を出す。ところが止め方を知らなかったため、あふれた塩が小舟ごと兄を沈めてしまう。
 石臼も海の底に沈み、壊れる瞬間まで塩を出し続けた。それによって海の水は塩辛くなった。

 このお話は、北欧に原型と思われる民話がありまして、そのあたりから伝わり、アレンジされて今日に至るのではないかと。麦饅頭というのは、おそらくパンのことですね。小人というのも日本昔話では珍しい部類なのですが、それなら納得もできます。
 アレンジが容易だったのは、話の筋立てがわかりやすかったためでしょうか。欲張りな人間が不思議なものを手に入れて、使い方を誤り、痛い目に遭う。これまでに語ってきた中では「花咲か爺さん」の欲張り老夫婦がよく似た例ですね。
 そう、問題は使い方なのです。このお話も、バージョンによっては欲張りな兄と欲のない弟、のような性格上の対比がなされているものがあるのですが、兄は欲をかいたために破滅したのでしょうか。もとをただせば、という言葉をつければ、その解釈も成立するでしょう。
 兄が破滅したのは、石臼の使い方を知らなかったからです。「花咲か爺さん」の欲張り老夫婦が犬に嫌われたように。もしも兄が石臼を使いこなしていれば、別の国に渡って悠々自適の生活を送ったでしょう。

 目先の欲にかられた者は、視野が狭くなり、判断力が雑になりがちです。正しい使い方を知ろうとせず、考えようともせず、自分で乗りだし、結局はただの真似だけをして見事に失敗する。このお話の場合、長期的に利益を得ようと思えば、兄は弟に頭を下げてでも石臼の正しい使い方を教えてもらい、可能ならば弟に石臼を使わせ続けるべきだったのでしょう。自分で使うよりも確実ですから。

 欲は、社会を形成した生き物にとってもはや欠くことはできないものです。欲を捨てよという神仏の教えも、死後に救われたいという欲だけは決して捨てさせません。天国を伝え、極楽を伝え、死後の安寧を伝え、子孫の繁栄を伝えます。欲を否定することはできず、コントロールすることもまた難しい。
 ならば、欲に駆られてもなお、視野を広く持とうと努め、道具ならば、どのように使えばもっともよい結果を生むのか、考え続けるしかないのでしょう。ひとつ間違えれば、環境さえも一変してしまうことがあるのですから。 


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by tsukasa-kawa | 2017-09-26 23:48 | 日常雑記

9月26日のお話

 うさぎは寂しいと死んじゃうのよー。嘘です。
 世間は嘘ばっか! 知らず知らず、今を生きる僕たちのまわりには嘘があふれていて息が詰まりそうだ。なんて、ポエムのワンフレーズでも口ずさんでしまいそうですよ。
 ものの本によると、ペットとして飼っているうさぎを長期間放っておくと、放っておかれる→環境の変化(それまでかまってもらっていたのに、それが急になくなった)→ストレス→死、もしくは長期間放っておく→常に何か食べていないと胃腸の動きが停滞する→死、というプロセスらしく、おまえどれだけ打たれ弱いんだよという気になるのですが、うさぎを人間の基準で考えてはならんということでしょう。

 さて、今夜のお題は「因幡の白兎」です。もとは古事記に載っていた大国主命の逸話のひとつですが、いつしか昔話のひとつとして独立して知られるようになりました。昔話には、案外こういう例はあるんですね。たとえば「わらしべ長者」は今昔物語集に原話とおぼしきものが見られますし、「姥捨て山」も枕草子の中に記述が見られます。まあ能書きはこのぐらいにして、ざっとお話を見ていきましょうか。

 一匹の兎が、海を渡って島へ行こうと考え、海岸からサメに呼びかける。「自分たちとあなたたちと、どちらの同族がより多いのかくらべよう。できるかぎり同族を集めて、ここからまっすぐ並んでみてくれないか」
 サメは兎の話に乗って、同族を集めて海面にずらっと並ぶ。兎はサメを数えるふりをして目的の島へ渡るが、島に着く直前に「もとよりくらべるつもりはない。海を渡るためにおまえたちを騙したのだ」と、暴露する。
 兎はサメに毛皮をはぎとられて、地面に転がされる。
 そこに旅人が来て、海水で身体を洗って風で乾かせと教える。その言葉に白兎は従うが、身体の痛みはひどくなるばかり。
 そこに別の旅人が来て、川の真水で身体を洗い、蒲の穂綿にくるまって休めばよくなると教える。その言葉に従うと、白兎は回復した。

 騙される方が悪いんだよバァァカ!(堺雅人の顔と声で)
 兎はまずサメを騙したあとにボロを出して痛い目を見たあと、騙されてさらに痛い目を見ます。こう言ってはなんですがドジっ子です。おっちょこちょいです。デスノートを持たせたら相手の名前を書きこみ終わる前に僕がキラだぴょーんとか言いそうな危うさです。騙されたときは満身創痍だった点を割り引いて考えるとしても、サメにぼこぼこにされるのはさすがにいただけない。
 兎がどうすればよかったのかを論じるのは、不毛でしょう。少なくとも、安全な場所を確保してから事実を告げればよかったのですから。
 もっとも、これほどひどい失敗ならば「嘘をつくのはよくない」と思うひとは意外にいないかもしれません。それ以上に「下手なことしたなあ」という印象が強いからです。もっと上手くやれば、と思うひとはいるのではないでしょうか。
 嘘をつくのは、基本的にはよくないことでしょう。肯定できる嘘は非常に少ない。嘘をつかずにすむ人生を送れるのなら、それはとてもすばらしい。
 ですが、これは嘘をついた方がいい、本当のことを言わない方がいい、という状況に遭遇したことはないでしょうか。また、変則的ながら、嘘をついたことで罪悪感を抱いたり、嘘によって失敗や屈辱的な体験をしたりして、それが成長の糧になったことは。
 嘘や詐欺師に関するエピソードは、紀元前からいくらでもあります。二千年以上前から、人間は嘘と隣り合わせで生きてきたのです。重ねて言いますが、肯定できる嘘は少ない。嘘をつかれて気分のいいひとはいないでしょう。サメや、また白兎のように。
 しかし、嘘と隣り合わせで生きる以上、上手な嘘のつきかたや、嘘の見抜き方は、どこかで多少なりとも学ぶ必要があるのでしょう。やはり、相手に気づかせない嘘こそが最上でしょうか。嘘だけど。



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by tsukasa-kawa | 2017-09-26 00:48 | 日常雑記

9月24日のお話

 倒産した会社の社長室に入ってみたら、商売繁盛と書かれたおふだが何枚も貼られているたぬきの置物があった……。
 そんな経験はありますか? 僕はありません。幸い。
 九月も終わりに向かいつつあり、ようやく涼しくなってきたと思える今日このごろ、いかがお過ごしでしょうか。それでは「三枚のお札」いってみましょう。おふだ、です。英語でいうならAmulet。ディアブロやスカイリムのユーザーならおなじみですね。おさつ、ではありません。

 昔々ある山寺に、和尚と小坊主が住んでいた。ある日、山の中へ山菜を採りに行く小坊主に、和尚は山姥に気をつけるようにと言って三枚のお札を渡す。
 小坊主はたっぷり山菜を採ったが、いつのまにか日が暮れていた。途方に暮れた小坊主の前に老婆が現れ、家に泊めてくれる。
 夜中に目が覚めた小坊主は、老婆が山姥の本性を現して包丁を研いでいるところを見てしまう。逃げようとしたが見つかってしまい「便所に行きたい」とごまかす。
 山姥は便所の外で待つ。小坊主は一枚の札を便所の壁に貼り「自分の代わりに返事をしてくれ」と頼んで窓から逃げる。
 山姥は便所の外から何度か呼びかけ、札が返事をしていることに気づかず、我慢できなくなって便所に踏みこんでから小坊主が逃げたことを知る。
 山姥はおそろしい速さで小坊主を追いかけ、あっという間に追いつく。小坊主は「川の水、出ろ」と二枚目の札に念じる。すると水が湧きだして洪水が起こる。
 しかし、山姥は川の水をすべて飲み干してしまう。小坊主は「火よ、出ろ」と三枚目の札に念じて業火を出現させるが、山姥は飲んだ水を吐きだして炎を消す。
 ともかく時間を稼ぐことはできたので、小坊主は山寺に逃げきった。和尚が山姥と対面し、言葉巧みにだまして撃退する。
 
 話を聞いてみたら、案外どこかで聞いたことがあるのではないでしょうか。
 しかしもっとさー、おふだの使い方があるんじゃないのぉー? スーパーピンチクラッシャーを呼びだすとかさぁー。
 山姥をだますほどの同じ声を出す、洪水を起こす、火を生みだす。バージョンによっては砂山を出現させることもできるようで、使用者次第でいくらでも化けそうです。GS美神の文殊を思いだしますね。
 この三枚のお札で、どう山姥と渡りあうべきだったでしょうか。生半可な火や水では通じないことは小坊主が実証ずみです。
 山寺に帰りたい、で一枚使い、残り二枚を好きなように使うのが正解な気がします。ほら、和尚さまはめっちゃ強いから。銀英伝を見ればロイエンタールだって、ラインハルトにメルカッツの相手をお願いしたことがあったしね。強敵にはそれに勝てるひとをあてればいいんですよ。
 それにしても、これだけ強力なお札をぽんと三枚も渡せる和尚はただものではありません。熟練者とはかくあるべし、というのがこのお話の主題でしょうか。



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by tsukasa-kawa | 2017-09-24 23:31 | 日常雑記

9月23日のお話

 転がったおむすびを追っていった先にあったのは地下帝国ネズミーランドでしたー!
 短くまとめてしまうと、だいたいこんな感じのお話なのが「おむすびころりん」です。それにしても雀といい、ねずみといい、害獣であるほど昔話の中では恩義に厚いのはどうしたことでしょうか。おそらく、身近すぎる生物だったからだと思われますが。
 あらためて、物語の流れをざっと追っていきましょうか。とはいえ、有名なものだけあってバージョンが極端に違うのですけれどね。

 山で仕事をしていたお爺さんが、昼時になっておむすびを食べようとするが、誤って地面に落としてしまう。
 おむすびは斜面を転がって、木の根元にある大きな穴に落ちる。すると「おむすびころりん、すっとんとん」という歌声が聞こえる。
 不思議に思って穴を覗きこんだお爺さんは、うっかり落ちてしまう。穴の中にはねずみたちがいて、おむすびのお礼に財宝をくれる。
 帰ってきたお爺さんから話を聞いた近所の欲張りお爺さんは、大量のおむすびを持って山に行き、おむすびを残らず穴に投げこんでから、自分も飛びこむ。
 欲張りお爺さんはねずみを威嚇して財宝を出させようとするが、怒ったねずみに逆襲され、大怪我を負って逃げ帰る。

 欲張りお爺さんが破傷風で息を引き取る未来しか見えないのがつらいところです。
 バージョンによっては、ねずみはお爺さんに歓迎の宴を開いた上で、二種類のつづらを選ばせるという舌切り雀みたいな流れとか、欲張りお爺さんが出てくるくだりは全面カットとか、いろいろあるのですが、上記の話をベースにするとしましょう。
 そもそも、おむすびってそんなに転がるんでしょうか。地面に落ちれば土がつくし、傾斜があってもでこぼこしているし、小石や木の根だってあるでしょう。偶然を装ったように見せかけて、ねずみたちはお爺さんを穴の中に導いたのではないでしょうか。おむすびを失ったお爺さんの反応を見るために。
 穴の中の世界の広さを考えても、この山はねずみのテリトリーです。山ひとつ丸ごととまではいわないまでも、かなりの部分をおさえていると考えていいでしょう。そして、お爺さんはそこに踏みこんできた侵入者ということになります。
 もっとも、お爺さんはおそらく山で長いこと仕事を続けてきたのでしょうし、この段階でねずみが接触してきたと考えると、お爺さんが山の中で仕事場を変えたか、ねずみが徐々に領域を広げてきたか、というあたりだと思われます。ともかく、二人のテリトリーが重なってしまった。そこで、ねずみはお爺さんと共存関係が望めるか、試したのではないでしょうか。
 さらに想像をふくらませるならば、こうしたお爺さんが後々、山の主と対話できる老人、などになるのかもしれません。



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by tsukasa-kawa | 2017-09-23 23:59 | 日常雑記

9月22日のお話・2

 地獄! 生前に悪行を為した者の魂が送られ、その罪が許されるときまで、ありとあらゆる厳しい責め苦を受ける恐ろしい世界。生きててもしんどいのに死んだらもっとつらいなんて嫌ですねえ。

 とはいえ、これはシリアスな世界における、そこの住人のお話です。ドラゴンボールの世界に迷いこんでしまった両津勘吉が、フリーザのちょっと本気出しちゃった攻撃にも平気でいたように、別の世界のルールを持ちこんでくる相手には地獄でもちょっと荷が重いようで……。
 それでは「地獄の暴れもの」です。これも地域ごとに題名がさまざまで「地獄へいった三人」「山伏と軽業師と医者」「地獄の惣兵衛」などがありまして、それなら知っているという方もいるかもしれないですね。おおもとは江戸時代の上方落語「地獄八景亡者戯」(の後半)ですが、ざっとこんな内容です。

 とある医者が死んで、閻魔大王のもとへ送られる。自分は生前に多くの患者を救ってきたと訴えるも、あくどいやり方で儲けてきただろうと看破されて地獄へ落とされる。
 続いて、死んだ山伏と鍛冶師が同じく閻魔大王のもとへ送られ、ひとをさんざん騙してきただの、できの悪い道具を作ってきただのと言われて地獄へ送られる。
 三人は連れだって地獄に入り、鬼に追い立てられて針の山へ向かう。しかし、鍛冶師がやっとこで針の山をへし折り、さらに加工して鉄のゲタを人数分作って、三人は針の山を難なく越えてしまう。
 次は釜茹での責め苦ということで湯がぐらぐら煮立った大釜に放りこまれるが、山伏が法力で湯をぬるくしてしまう。
 怒った閻魔大王は三人を一呑みにしてしまうが、医者が胃酸で溶けない薬をつくってひとまずの安全を確保し、胃袋の中をかきまわしたあと、下剤を胃袋に流す。三人は閻魔大王の尻から脱出する。
 手に負えないと判断した閻魔大王は、三人を生き返らせる。

 なんと不甲斐ない。へぼ鍛冶師ごときに折られる針の山! えせ山伏ごときにぬるくされる大釜の湯! 鬼たちは何をしているのでしょうか、まったく。閻魔大王の胃袋も、やぶ医者ごときにもてあそばれるようでは普段の職務もまっとうできているのかどうか心配ですよ。
 しかし、責めるのは簡単ですが、本当に不甲斐ないのかというと難しいところです。いままでの亡者に対しては、この環境で苦しめることができていたわけですからね。
 こち亀にも両さんが地獄を征服する話がありましたが、本来適用されるべきルールが適用されない、あるいはルールを超越してしまうような人間が入ってきた世界は、こうなってしまうのでしょう。この医者たちは最後に生き返るわけですが(ものによっては極楽へ送られるという話もある)、知恵と技量で地獄を乗り越えた褒美を医者たちに与えたというよりも、閻魔大王を助けるための苦肉の策という感があります。消し去ることもできない以上、よそへ行ってもらう、あるいはルールの適用される世界へ放りこむしかないんですよね。
 話によっては、彼らが死んだ理由は飢饉が流行ったから、というのもあるのですが、その環境を知った上で生き返らせたのだとしたら、すさまじいバランスといえそうです。



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by tsukasa-kawa | 2017-09-22 23:49 | 日常雑記

9月22日のお話

 ファウストは、メフィストフェレスに心を売って明日を得た。マクベスは、三人の魔女の予言に乗って地獄に落ちた。キリコは素体に己の運命を占う。ここ、ウドの街で明日を買うのに必要なのは、ヂヂリウムと少々の危険。次回「取引」。
 惑星メルキアにかぎらず、ものを得るには対価が必要です。それは昔話の世界でも変わりません。いえ、むしろよりシビアであるといえるでしょう。そして、対価が妥当なものであるかどうかは、そのひと次第でしかないのです。
 などと、名作をネタに使ってもっともらしい挨拶をすませたところで「鉢かづき」です。地域によっては「鉢かつぎ」「鉢かぶり姫」などといわれていまして、そちらの題名だったら聞いたことがあるという方もいるかもしれません。

 昔々、ある長者が観音様に女の子を授けてほしいと祈願した。観音様は聞き届け「娘が一定の年齢に達したら鉢をかぶせなさい」と長者の妻にお告げをくだした。
 娘が生まれて美しく成長する。娘が一定の年齢に達したとき、母親は重い病にかかっていたが、息を引き取る前にお告げに従い、娘に鉢をかぶせる。鉢はどうやっても外れず、壊れもしない(以後、彼女を鉢かづきと呼ぶ)。
 その後、長者は後妻をむかえるが、後妻は鉢かづきをいじめぬく。悲嘆にくれた鉢かづきは川に身を投げるも、鉢が浮いて身体が沈まず、京に流れ着く。
 みすぼらしい姿であてどもなく京の町をさまよう鉢かづきを見て、中将(ようするに偉いひと)が同情し、引き取る。鉢かづきは中将の屋敷で風呂焚き女として働くことになる。
 鉢かづきは一生懸命に働き、やがて中将との間に愛が芽生える。
 中将の家族は当然その恋愛に反対し、中将の兄弟の嫁を連れてきて「嫁くらべ」をしようと持ちかける。嫁くらべとは、嫁を並べて和歌を詠ませたり琴を弾かせたりして、技量を競うものである。
 嫁くらべの前夜、鉢かづきと中将は駆け落ちしようとする。そのとき、鉢かづきの鉢が外れ、美しい顔が露わになる。さらに、鉢かづきは和歌も琴も巧みにこなした。
 鉢かづきと中将は結ばれる。めでたしめでたし。

 鉢て。観音様じゃなくて、観音様の形をしたベヘリットか何かに祈ったんじゃないのこれ。いやはや神頼みなんてするもんじゃないですね。
 しかもこの鉢、風呂焚き女として働いているからにはものを見ることも食事をとることもできる仕様なのに、鉢が外れるまで誰もその美しさに気づかない=顔が見えないらしいという代物。車田正美の漫画かな? まあ容姿がわかりにくいということにしなければ、中将は鉢かづきの美貌に関係なく、その健気な働きぶりを見て惚れたということにできませんからね。働かない美人よりは働く変人ですよ。
 神頼みによって子を授かる昔話だと、これまでに語った中では「一寸法師」がありますが、彼もまた生まれながらに全長約三センチの人間であり、打ち出の小槌を手に入れるまで成長しませんでした。
 彼といい、鉢かづきといい、本来生まれるはずのなかった子が、この世に生を受けたことの対価として理不尽な人生を与えられた、ということなのか。しかし、両者とも最終的にはごく普通の人間になって、又は戻っています。
 であるならば、試練を課されたと見るべきでしょう。一寸法師は娘を守って鬼を追い払い、鉢かづきは駆け落ちをするほどの覚悟を決めました。彼女の場合、ものによっては駆け落ちをせず「嫁くらべ」に出ることを決意する瞬間に鉢が外れた、という話もあるので、愛する者と添い遂げる意志を持つ、というあたりが試練を突破する条件であるように思われます。
 ひとの運命は神が遊ぶ双六だとしても、あがりまでは一天地六の賽の目次第。理不尽さに嘆きたい日があったとしても、それに屈さず、困難をくぐり抜けようと力を尽くすこと。それを描いたのがこの物語なのでしょう。一寸法師と鉢かづきとで条件が違ったように、ひとによって突破するべき条件は異なるでしょうから、まずはそれを見極めねばならないのでしょうけれど。
 そして、お天道様が見ている、といいますが、彼らは案外、人間たちが試練を突破する瞬間を心待ちにしているのかもしれません。劇的な瞬間を狙いがちなのは、待ち続けた対価、なのでしょうか。



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by tsukasa-kawa | 2017-09-22 07:01 | 日常雑記

9月20日のお話・他

 あちきぃー、結婚相手はぁー、年収1000万でないとやだぁー。
 そんな、煮立った味噌汁で顔洗ってこいやと言ってやりたくなるような輩は幸い僕のまわりにはいませんでした。今日も界隈は平和です(まわりにひとがいないだけじゃないかな?)。
 さておき、今日は富士見ファンタジア文庫の発売日なのでした。
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葵せきな   ゲーマーズDLC

アニメ放映中のゲーマーズ。ドラマガに連載した短編に書き下ろしを加えた外伝です。興味を持たれたら是非。


 さて、結婚は古今東西、そういう文化ができた地域においてネタにされないことがないぐらいの代物ですが、昔話においても例外ではありません。当事者同士の自由意志による恋愛結婚がごく少数で、基本的には親や家が相手を決めていた時代であっても、困難はやはりあったのです。それでは始めましょうか。「ねずみの婿取り」。流れはこんな感じです。

 あるねずみが、そろそろ娘に婿をとらせようと考え、せっかくだから天下一の者を婿にしたいと思い立つ。
 太陽こそは世に並ぶものがないだろうと考え、交渉に向かうも「私は雲が出てしまうと無力だから、雲を婿にしてはどうか」と言われる。
 それではと雲のところへ向かうと「私は風に吹かれると無力だから、風を婿にしてはどうか」と言われる。
 それではと風のところへ向かうと「私は土塀を吹き飛ばせず無力だから、土塀を婿にしてはどうか」と言われる。
 それではと土塀のところへ向かうと「私はねずみにかじられると無力だから、ねずみを婿にしてはどうか」と言われる。なるほどと、父親ねずみは、ねずみを婿に取った。

 たらいまわし! 見事なたらいまわしです。どいつもこいつも無機物の分際で、自分を卑下して面倒ごとを回避し、よそへぶん投げるサラリーマン的小技を巧みに披露しています。そもそも太陽とねずみが結婚したらどうなるんだろう。ねずみのロースト一丁あがりで終幕なんじゃないか。
 とはいえ、娘にできるだけいい婿を迎えたいという父親ねずみの心情はわかります。結ばれれば長いつきあいになるんだから人選にもそりゃあ気を遣いますよね。
 問題は、たらいまわしにされるぐらいに要求が漠然としすぎていたところにあったのでしょう。父親ねずみには、何をもって天下一とするかの基準がありません。ですので相手の主張を受け入れるしかなく、次々によそへまわされてしまうのです。
 太陽、雲、風、土塀の力関係でいえば、太陽は風に揺らぐことがなく、位置によっては土塀に遮られずに地面を照らすこともできる。雲に遮られることにしても永遠ではなく、いつかは姿を見せるのです。同じことは雲、風、土塀にももちろんいえます。

 結婚は、夫と妻が協力して新たな生活をつくりあげるものです。家父長制が強かった時代は、家同士の話しあいで新たな生活がつくられることもあったでしょう。その善し悪しは置いておくとして、重要なのは新たな生活のイメージです。自分だけでできるものではないのですから、おたがいのイメージを交換し、尊重できるところは尊重し、譲れないところは譲らず、受け入れるべきは受け入れる。それができなければ、たとえ形を作っても長続きはしないでしょう。
 それを思えば、生活や価値観が同じか、あるいは非常に近いであろうねずみを婿に選んだこの結末は、笑い話のオチという以上のものがあるのかもしれません。



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by tsukasa-kawa | 2017-09-20 21:40 | 日常雑記