一〇八(仮)

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ライトノベル作家川口士のブログです。「魔弾の王と戦姫」18巻、11月25日発売です。よろしくお願いします。

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10月20日のお話

 カメェェェッー!

 カメっていやな敵ですよね。ドラクエをやればガメゴンに苦しめられ、FFをやればギルガメに苦しめられ、マリオカートをやれば赤甲羅を後ろから投げつけられ。
 そんなカメも、昔話ではまた違う役割を与えられます。それではイソップから「兎と亀」いってみましょうか。もしもし亀よ、亀さんよ、って歌があるから日本の民話だと小さいころは思ってました。どうでもいいですね。

 発端は、ウサギがカメの足の遅さを馬鹿にしたところからはじまりまして。カメが怒って駆けっこで勝負を挑むわけです。
 そして、ウサギはぐんぐん先へ行くわけですが、そこで勝ったと思ってしまい、居眠りをはじめる。その間にカメはウサギを追い抜き、勝利する。

 馬鹿にされて、自分が不利な勝負を挑む。バトル漫画の原点といってよいでしょう。ええ、バトル漫画です。
 カメの地道な努力を評価する向きがありますが、そもそも相手の失点がないと勝てない勝負を挑む時点で、このカメはそうとうおかしい。本当に勝つ気があったのか疑われるところです。ウサギが居眠りしていることに気づくまで、どういう心境だったでしょうか。もう相手がゴールしているだろうと思いつつ、言いだしたことだしとでも思いながら、歩いていたのではないか。それを地道な努力というのでしょうか。
 他地域に伝わったものの中では、カメが日時とコースを指定し、事前に仲間を潜ませておくことで勝利するという、これまたバトル漫画のような流れを持つものがありますが、少なくともこのカメは勝つつもりがあり、そのために動いている。
 とはいえ、現実には相手の失点によって道が開けるということがたくさんあります。地道な者が勝つというのではなく、こういう運のいい者っているよね、というのが兎と亀なのかもしれません。



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# by tsukasa-kawa | 2017-10-20 01:35 | 日常雑記

10月18日のお話

 力で身を守ることはできますが、金で身を守ることはできません。
 もちろん金を使って力のある者を雇うなり、武器などを買うなりすれば身を守ることはできますが、結局身を守るのは力ということになります。
 ドラマなどの終盤で金持ちの悪人がやられるときの「金がほしいのか。金ならいくらでも(ズキューン)」という、まああんな結末が待つわけです。
 金を使って身を守るには、それなりの知恵が必要です。知恵も力もなければ、その金さえ守れません。
 などとぐだぐだ語ったところで、ノルウェーの昔話「北風のくれたテーブルかけ」まいりましょうか。

 少年が、パンを焼くための小麦粉を家の外の食料庫から取りだして家に運ぼうとしていた。
 そこへ北風が吹いて、小麦粉を吹き飛ばしてしまう。少年は北風を追いかけ、北風の住む氷のお城にたどり着いて訴える。
 北風は小麦粉はないと答え、代わりにどんなご馳走でも出てくるテーブルかけを少年に与える。
 少年は喜び勇んで家路を急ぐが、途中で泊まった宿でテーブルかけの秘密を主人に知られ、すりかえられてしまう。
 家に帰ってもテーブルかけはうんともすんとも言わない。少年は再び北風のもとへ行き、訴える。
 それではと、北風は今度は金貨を吐きだす羊を与える。少年は喜び勇んで(中略)やはり途中で泊まった宿で羊をすりかえられ、三度、北風のもとへ。
 北風が次に与えたのは悪人をこらしめる杖だった。少年はやはり宿に泊まり、今度は杖をすりかえようと忍びこんできた主人を、杖で打ちのめす。そうしてテーブルかけも羊も取り返した。めでたしめでたし。

 北風もずいぶん気前がいいものですが、3度目にあげたものが「悪人をこらしめる杖」とは、なかなか考えたと思われます。
 もしも少年が北風をだまして財宝をいくつもせしめようとしているのなら、渡した時点で杖が少年を打ちのめすでしょう。そうではなく、もしも少年が何者かにだまされているのなら、少年に必要なのは財宝ではなく、悪人から身を守る力です。だって財宝を守るだけの力も知恵も勇気もないんだもの、この子。知恵と勇気はそう簡単に湧いてくるものでもないので、とりあえず力を持たせるのが手っ取り早い。
 そして、これは少年が悪人にならないための抑止力にもなります。少年が首尾よく財宝を取り返したとして、杖があるうちは道を踏み外すことはない。それなら問題ないと、北風は思ったのではないか。
 いつか杖に代わる力を身につけたとき、少年は杖を必要としなくなるのでしょう。



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# by tsukasa-kawa | 2017-10-18 23:47 | 日常雑記

10月17日のお話

 家を焼いて、旅立つ。
 漫画やアニメ、映画などで、見たことがある場面ではないでしょうか。
 その多くは、目的を果たすまで帰らないという決意の証なわけですが、旅は非常に困難なものです。生まれ育った町や村にいれば、こんな目には遭わなかったのにというような数々の経験を経て、彼らは成功をつかみとります。おそらく、その影には同じように家を焼いて旅立ちながら、志半ばで倒れていった者が数多くいたでしょう。

 さて、僕の中では、貧しい生い立ちとか関係なく、不幸な話を書きたくてたまらなかったのではないかという疑惑のあるアンデルセン作「マッチ売りの少女」です。
 年の瀬に、父親に命じられ、寒い中マッチを売ろことになった少女のお話ですね。マッチを擦ったら次々に幻が現れ、最後に炎の中に祖母の霊が現れて少女の魂を天国へ連れていった、という結末で締めくくられます。死によって彼女は最後に救いを得た、ということのようです。

 のっけから詰んでいます。年の瀬で慌ただしい町。恐ろしい父親。売れやしないマッチ。売るまで帰れない状況。マッチに出てきた祖母の幻影が意味する、守ってくれる者の不在。そのマッチで家を焼いて炎の旅立ちをした方がよかったんじゃなかろうか。とはいえ、そう思い切ることはなかなかできないのもたしか。ぶっちゃけ町の外は怖いし、どうすればいいかわからないものだしね。
 ですが、本当に彼女が助かる道はなかったのか。年の瀬なら教会がにぎわっているはずで、クリスマス・キャロルよろしくクリスマスの寄付金を集めた直後であったはず。寄付金集めがイギリス限定だったとも思えないので、教会に行けば空腹はともかく、寒さをしのぐことはできたかもしれません。父親について話せば、運がよければなにがしかの力になってくれた可能性もあります。父親の人柄を知っているだろう近所の住人なら、夜の間ぐらいはかくまってくれるかもしれない。
 思い切るのは怖いものです。上に書いたことだって、それで一晩しのいでも延命しただけに過ぎず、父の怒りを買って状況が悪化する可能性もあるでしょう。
 ですが、凍えて動けなくなってしまえば、本当に幻に看取られて終わってしまう。

 少女は生きることに疲れ果てていたのでしょうか。では、マッチを擦ったら望むものの幻が出てきたのはなぜなのか。もう死ぬから幻ぐらい見せようということだったのでしょうか。食べ物やストーブの幻は、生きたいという少女の思いだったのではないでしょうか。死を選ぶのだって、怖いものです。
 もう耐えられなくなったら、いえ、耐えられなくなる前に行動しなければ、最後はこうなるよという見方もできるのではないでしょうか。死者の思いを生者が決めつけるのはよくないことでしょうが、祖母だって、孫の魂をこんなんで連れていきたくはなかったでしょう。死神かよ。



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# by tsukasa-kawa | 2017-10-17 23:49 | 日常雑記

10月16日のお話

「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。戻ってきたら子供と遊んで、それから女房とシエスタして。夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって……ああ、これでもう一日終わりだね」

 また一日分溜めこんでしまった……。
 気を取り直して、上の台詞は、ネット上のコピペの一部を抜粋したものです。メキシコの田舎町で漁をしていた漁師に旅行者が話しかけ、ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間としてアドバイスしようと言い、こうすればもっと金が儲かる、億万長者になれる、引退してゆっくり過ごせると説くものです。
 ひとには、性格や能力、環境に応じた生き方があります。性格に合うこと、能力の面からも向いていることは多少の失敗にもめげずガンガン押し進められるでしょうし、環境に応じて、ということは必要なものがそろいやすいということです。逆に、性格に合わないことをやれば普段より疲れるかもしれないし、向いていないことをやれば失敗する可能性は上がり、環境に合わない生き方は、性格や能力でカバーしなければならない場面がしばしば出てくるでしょう。もちろん、やってみたら意外に向いていた、不得意だったことを得意なものにしたという例はたくさんあるので、一概には言えないのですが。

 さて、イソップから「アリとキリギリス」です。原話は「アリとセミ」なのですが、どうもセミのいない地域へ話が伝わったときにキリギリスに変わったようですね。ここではキリギリスで通します。
 アリが懸命に頑張って食糧をためているころ、キリギリスは遊び呆けていました。食糧はそのへんにいくらでも転がっていたからです。
 ですが、冬になって食糧が見当たらなくなり、キリギリスはアリに助けを求めました。しかし、アリには拒絶されました。

 原話では、アリがセミに「夏唄ったなら冬は踊ったらどうだい」と辛辣な言葉を投げかける場面などもあるそうです。それに対してセミが「歌うべき歌は歌い尽くした。私の亡骸を食べて生き延びればいい」と答えるバージョンもあるとか。また最近のだと、アリがお説教をしたあとキリギリスを巣の中に迎えいれるバージョンもあるようです。
 必要なものをしっかり溜めておく地道な生き方こそ尊ぶべし、というよりは、遊び呆けていてはいつか後悔するという脅しめいた教訓が、このお話の伝えたいことであるようにいわれています。ですが、セミは秋には死にます。キリギリスもやっぱり秋には死にます。冬まで生き延びたとしても、セミの食べるものは樹液ですし、キリギリスは肉食性なので、本当に他に食べるものがなくなったらアリでさえも標的にするでしょう(普段は小さいものは狙わないらしい)。生き方は性格や能力、環境に応じるのです。
 とはいえ、教訓から見れば、遊び呆けて身代を失い破滅した人間が山ほどいるのは事実であり、それを反面教師とするのも正しい。
 であれば、蓄えがなくなるという状況を、なるべく作らないようにするしかない。生き方に合わせて。餌場を複数持って季節ごとに拠点を移す、その場をしのぐことができる人脈をつくっておく、代価として餌がもらえるぐらいまで自分の歌の質を高める、というあたりか。
 キリギリスは、生き方を超えて遊びすぎたということになるのでしょうか。



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# by tsukasa-kawa | 2017-10-16 10:53 | 日常雑記

10月14日のお話

 トントン
「誰だー?」
「かあちゃんだよ」
「ほんとにかあちゃんか? じゃあ次の問題に答えてみろー。子ブタの住むレンガの家に入る方法は?」
「そりゃあ煙突から」
「おまえ狼じゃねえか!」

 西洋では、狼というのはよほど凶悪で、獰猛な存在のようです。これまで語ってきたものだと「三匹の子豚」や「狼と羊飼い」などがありますが、三匹の子豚においては、狼は力強さを示して藁の家や木の家を破壊し、レンガの家に対しても狡猾さを発揮して、あと少しというところまでいきました。狼と羊飼いにおいても、少年の叫びを聞いて、大人が数人がかりで駆けつけてくるほど警戒されています。語っていないものだと「赤ずきん」あたりが有名でしょうか。こちらもずる賢いですね。
 それでは「狼と七匹の子ヤギ」いってみましょうか。やはりずる賢い狼の出てくる物語です。

 母ヤギが町に出かけ、七匹の子ヤギが留守番をする。
 そこへ狼が母ヤギのふりをしてドアを叩く。子ヤギたちは「そんな声は母さんじゃない」と言って追い返す。
 狼はチョークを食べて声をよくして再挑戦。しかし、ドアの覗き穴から見えた脚に「この脚は母さんじゃない」と言って追い返す。
 狼はパン屋で小麦粉を調達して脚に塗り、再挑戦。今度はだますことができて、狼は侵入するや子ヤギをかたっぱしから丸呑みにする。七番目のヤギだけは隠れることができて助かる。
 狼が去ったあと、母ヤギが帰ってきて、七番目から事情を聞く。外に出て狼をさがすと、川辺で昼寝をしているところを発見する。
 母ヤギは七番目にハサミと針と糸を持ってこさせ、狼の腹を割く。丸呑みにされていた子供たちは六匹とも無事に出てくる。
 母ヤギは子供たちに石ころを持ってこさせ、狼の腹に詰めこんだ上で針と糸で腹を縫う。
 目覚めた狼は腹の重さに苦しみながら水を飲もうとして落ちてしまい、おぼれ死ぬ。めでたしめでたし。

「丸呑みだから無事」という、洋の東西を問わない理不尽なルールはひとまず横に置くとして、麻酔なしで切開とかブラックジャックも真っ青ですよ、母ヤギ。患者は目覚めませんからね。このテクニック、狼が母ヤギの留守を狙ったのもうなずけます。このヤギ一家に父親が出てこないのは、たぶんこの恐ろしいテクニックの餌食になったのでしょう。
 腹に石を詰めこまれておぼれ死に、というのは、まあ救出劇がなければ六匹の子ヤギが消化されて狼の血肉となっていたわけですし、母ヤギの技術を考えると、ぬるい方だと思っていいのでしょう。生皮を綺麗に剥いで表側を肉に縫いつけるとかしそうじゃん、この母ヤギ。
 それにしても、狼は詰めが甘かった。いや、母ヤギを甘く見ていたのでしょうか。目的を果たしたからには、相手が確実に追ってこられないエリアまで逃げるべきでした。遠足は家に着くまでが遠足であり、途中で足を止めては、まだミッションクリアではないのです。
 まあ、母ヤギの技術と復讐心を考えると、狼が逃げきったら逃げきったで、生き残った子供を連れて母ヤギがさすらいの旅を続ける子連れ狼ならぬ子連れヤギの物語がはじまるかもしれませんが……。



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# by tsukasa-kawa | 2017-10-14 23:41 | 日常雑記