一〇八(仮)

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ライトノベル作家川口士のブログです。「魔弾の王と戦姫」18巻、それから片桐雛太さんの魔弾画集、絶賛発売中です。よろしくお願いします。

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カテゴリ:日常雑記( 649 )

12月28日のお話

 今年もあと三日とちょっとですよ。お店は三日前までからがらりと変わって年末年始を彩る数々の商品の宣伝に大忙しという感じです。かくいう僕も、今年は冬コミに参加するので、その宣伝をツイッターでやっていまして、ついでにここでも宣伝しておきますね。
 3日目東7ホールあ49a ウリボックス
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 こちら「折れた聖剣と帝冠の剣姫 異聞」のプレビュー本です。
 いくつかの掌篇小説がついたイラスト集ですね。
 一迅社さんでシリーズ刊行していた「折れた聖剣と帝冠の剣姫」の外伝としての位置づけになるもので、本編4巻で登場した某国の使者二人組を主人公に据えた物語になります。それゆえ「異聞」なんですね。この二人組の為人や日常の断片、いずれお出しする予定の長編の一片などをちりばめた構成になっております。
 また、こちらには美弥月いつかさんの描き下ろしクリアファイルがついてきます。 

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 それから、こちらは僕は参加していないのですが「シルビア神の怒り」と題したアイギス本になります。某所より引用した内容によると「第二兵舎で塩漬けにされたシルヴィアが王子たちに激怒したり、ナナリーに負けじとカノンが天才ちゃんの猛特訓を受ける話とか、ラピス様の脳内妄想劇場垂れ流しだったり、加えてもりたんの愉快だったりエッチだったりな挿絵とか美弥月いつかのこだわりすぎなシルヴィア挿絵満載」とのことです。特典ペーパー付き。こちらもぜひ。
 その他の詳細はこちらから。

 さて、今日はあらすじなんぞ不要といっていい有名な昔話「ごんぎつね」ですよ。狐のごんが首にからまったウナギと格闘している挿絵や、兵十がごんを撃ったあとに「ごん、おまえだったのか」とつぶやくシーンを覚えている方は少なくないだろうと思われます。
 まあ念のためにあらすじを書いておくとしましょう。

 これは「私」が小さい時に村の茂兵というお爺さんから聞いた話だ。
 昔、ごんぎつねというひとりぼっちの小狐がいて、夜でも昼でもあたりの村へ行って、芋を掘り荒らしたり、菜種に火をつけたり、いたずらばかりしていた。
 ある秋のこと、ごんは川で魚をとっていた兵十の隙を突いて、彼のびく(とった魚などを入れる容器)に入っていた魚やウナギを放りだしてしまう。
 十日ほど過ぎた日のこと、ごんは兵十の母が死んだことを知る。そして、兵十の母親はうなぎが食べたいと言ったに違いなく、兵十は母親にうなぎを食べさせようとしていたのだろうと思い、後味の悪い思いを抱える。
 それから、ごんは毎日のように栗やまつたけを兵十の家へ持っていき、気づかれないようにそっと置いていく。
 その日も、ごんは栗を持っていったが、兵十に見つかって撃たれる。そして、兵十は土間に置かれた栗を見て、ごんがそれらを持ってきてくれていたことを悟る。

 ちょっとごん君、想像力が豊かすぎませんかね。
 兵十の母親はうなぎが食べたいと言ったに違いないって、これ、ごん君の想像だかんな。もっと言えば、語り手である茂兵さんか、その話を聞いている「私」が盛った可能性があるかんな。芋を掘り荒らすのも当時の食糧事情を考えると即毛皮化って感じですし、菜種に火をつけるのは狐狩りへの第一歩って感じですよ。
 まあ想像だと決めつけてしまうと話が進まないので、事実であるということにしましょう。
 兵十の母親が亡くなり、兵十がごんと同じひとりぼっちになってから、ごんの「うなぎの償い」の日々がはじまるわけですが、これ、はたして兵十は、ごんが何のために毎日兵十に栗とまつたけばかり食わせるような日々を送らせたのか、気づいているのでしょうか。毎日栗を食べるってけっこうしんどい気がするんだけど、個人的な感想はちょっと横に置いておきましょう。
 兵十が栗やまつたけに感謝しているのは間違いありません。村人に、それは神さまがくださるんだと言われて信じていますからね。気になるのは、ここでも「たった一人になったのを哀れんで」という文が入っていることです。はからずも、村人の考えがごんが以前抱いた思いと一致しているんです。やっぱり茂兵さん、盛ってませんかね。
 このお話には何か教訓めいたものはなく、ひとりぼっちになってしまった二人の話を、その心が触れあった瞬間を語りたいということだったのではないかという気がします。だって、語り手か茂兵さん、だいぶごんに入れこんでいるしね。またはいたずら狐を葬り去るべく計画された狐狩りを止めるための狐の……いや、よしておきましょう。ごんは兵十のために何かをしようとした。兵十が母親のために何かをしようとしたように。そのままにしておく方がいい話も、ものによってはあるのでしょう。



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by tsukasa-kawa | 2017-12-28 23:59 | 日常雑記

12月27日のお話

 クリスマスはいかがでしたか。僕は幾人かと酒を飲んだりチキンやケーキを食べたりしていました。
 昔はクリスマスは友人同士だとか恋人同士だとかでぱーっと騒ぐものなんてイメージがあったのですが、最近はちょっとご馳走に奮発するけどそれほど特別ではない日という扱いらしく、恋人同士の逢瀬もクリスマスではなく曜日や他のスケジュールに合わせるとかで、それはそれでまっとうでござるなとしか言いようがなく。
 イベントとしての定着から、伝統行事、風習的なものへと変わりゆく、あるいは戻っていく時期に、僕たちは身を置いているのかもしれません。5年後、あるいは10年後には、さまざまな記念日などと同列に扱われているのかも。

 さて挨拶を終えたところで、今宵は「あの坂をのぼれば」です。「小さな町の風景」という題の掌篇小説集のひとつですね。「あの坂をのぼれば、海が見える」という一文を覚えている方もいるかもしれません。

 少年が、朝から山道を歩いている。
 小さいころ、祖母から子守唄のように「うちの裏の、あの山を一つ越えれば、海が見えるんだよ」と聞かされていた。 
 あるとき、少年は自分の足で海を見てこようと思いたち、山道を歩きはじめるが、山ひとつというのは言葉の綾だったらしく、行けども行けども海は見えてこない。
 もうやめようと諦めかけたとき、少年は次の峠を越えてゆく海鳥を発見し、再び歩きだす。

 正直、大雑把なあらすじを見るよりも原文をあたってほしい作品だと思います。情景、そして心理描写がこう、ときめくものがあるのですよ。
 そんな僕の感想はさておくとして、せめて地図は見ろや。
 いや、思いたったが吉日っていうのはわかりますよ。若さと勢いに任せて山へ飛びこむのはけっこうですよ。
 でも山を二つ三つ越えている時点でけっこうな難所だよね、ここ。水と食糧と帽子と登山靴ぐらいは必要なんじゃないだろうか。しかもここまでの描写で地元民らしきひとに会っていないあたり、使われていない山道ではないかという疑惑まで出てきますよ。鳥を発見してのくだりは感動するけど、旅人かおまえは。
 僕もいくつか山を登ったことはありますが(もちろんひとりではなくね)、高尾山ぐらいでも迷うときは迷うだろうなあと思うことがありまして。
 いまの時代なら電波さえ届けばスマホやガラケーで何とかなりそうなあたり、文明の利器と地図は大事ですよね。電波が届かなかったら? がんばれ。
 とはいえ、思いたって、その勢いのままで何かに挑戦してみるのはいいことだと思います。あと、地元民の感覚をうかつに信じてはいけない。



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by tsukasa-kawa | 2017-12-27 00:05 | 日常雑記

12月23日のお話

 ひさしぶりに往来で屋台のケバブを食べたんですが、これは肉(チキンかビーフ)と野菜(キャベツとトマト)と炭水化物(ピタパン)がほどよく合わさった完全食だと思うのですよ。ネックは食べたあと、しばらく息が香辛料くさくなるので、僕みたいな基本的に家で仕事をする人間じゃないと厳しいことかな。
 そんな「とりあえず今日食べたもの」で挨拶をすませたところで、お題に入りましょうか。「一本の鉛筆の向こうに」。

 まわりにある一本の鉛筆を手にとってみる。それができるまでには、多くのひとの苦労が、日常が、人生がある。
 スリランカのボダラ鉱山で働くポディマハッタヤさん。彼は黒鉛を砕いて採る仕事をしている。黒鉛は、鉛筆の芯の材料になる。
 ポディマハッタヤさんは七人家族で、彼は朝も夜もカレーを食べ、長男と次男を学校へ行かせている。
 アメリカはシエラネバダ山中で、きこりのダン=ランドレスさんは木を切り倒している。
 朝三時半に彼は起き、卵四つ、バナナ一本、牛乳二杯の朝食をすませる。
 トニー=ゴンザレスさんはトラックの運転手。切り倒されたヒノキの丸太をトラックに積みこみ、夜明けとともに製材所に向かって出発する。
 皮をむかれ、製材された木は、一年間乾かしたあとでスラットと呼ばれる板になる。スラットはコンテナに積みこまれ、船で日本へ運ばれる。
 山形県にある鉛筆工場では、スラットに溝をつけ、芯を入れ、もう一枚のスラットで挟みこみ、切り離す。こうしてできたそのままの鉛筆に色を塗り重ねて、完成品ができあがる。
 大河原美恵子さんはこの工場の塗装部門で仕上げの仕事をしている。
 一本の鉛筆を手に取ってみると、その向こうに大勢のひとの生活などが見えてくる……。

 黒鉛の採掘からかい! いっそ地球も参加させて炭素がいかにして黒鉛になるかまでも語った方がいいような気すらしてきます。気のせいですね。
 一本の鉛筆ができあがるまでにはこのような工程があり、世界中のさまざまなひとが関わっているのだ、と伝えるのはいいでしょう。そのひとたちの生活についても描写すれば、彼らにも家族があり、自分たちとは異なる形で食事をし、睡眠をとり、日々を送っていることもわかってもらえるかもしれません。
 でもポディマハッタヤとかゴンザレスのインパクトには負けるんじゃないかなー。あと、当時のスリランカじゃ朝晩カレーは日本の白米と同じ感覚ぐらいのはずとか、そもそも向こうのカレーと日本のカレーはまるで違うってのも追記しておいた方がいいような気もします。

 それにしても鉛筆って、いまどれぐらい使われてるんでしょうか。僕が鉛筆を使っていたのって中学生ぐらいまでで、それ以降はもっぱらシャープペンだったんですよね。小学校にはシャープペンを使わせず、鉛筆を使わせる風習があったけど。100円のシャープペンができたのが1980年らしいので、ちょうど僕ぐらいの世代が過渡期だったのか。もうちょっと前かな?
 鉛筆とシャープペンのどちらが便利かというと、難しいんですよね。シャープペンには、書いている途中で線が太くならないとか、手が汚れたりしないとか、いちいち削らずに芯を入れ替えればいいとか、いろいろメリットがあるのですけども、筆圧が強くても芯が折れにくいとか、鉛筆を適当にとがらせて斜めに寝かせて紙の上を走らせて黒い色をつけるとか(自分で書いててわかりにくいなあ)、六角形鉛筆に限定されますが、カッターで棒の部分に刻みを入れてサイコロ代わりにするとか、かつてのロシア人のように宇宙で使うとか……。
 時代の移り変わりとともに、主要となる筆記具は変わっていきます。かつては筆だったものが鉛筆になったように。それまで使われていたものが姿を消すということはないでしょうが、普及率が大きく下がってしまうことはどうにもならないのかもしれません。
 いつか、一台の電子端末ができるまでを書いた話が教科書に載る時代がくるかもしれませんね。



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by tsukasa-kawa | 2017-12-23 23:31 | 日常雑記

12月20日のお話

 蝙蝠について、どんなイメージをお持ちでしょうか。
 僕は蝙蝠の実物ってせいぜい動物園ぐらいでしか見たことないんですよ。正直な感想言うと、不気味だった。いや、だってさあ、本当に逆さ吊りで翼たたんで休んでるんだもんよ。怖いって。あれが不意打ちみたいな感じで飛んできたら悲鳴あげない自信がない。
 それにしても、蝙蝠はフィクションでは何か格好いい扱いをされている気がします。古くは黄金バットの正体を知っているのはコウモリだけ。仮面ライダー龍騎で最終的な勝利者になったのもコウモリがモチーフのナイト。ダークナイトことバットマンも、主人公が怖いと思うものをモチーフにしたとはいえ、スーツにモービルにと半端ないこだわりからスタイリッシュな仕上がりになっています。

 なんで急に蝙蝠の話をと思うでしょうが、いや、抜けがあってさあ……。「酸っぱい葡萄」で終わったとばかり思ってた。「スイミー」の話をしている場合じゃなかったね。仕事でわたわたしていたとはいえ、一ヵ月とか間を空けるもんじゃないね。
 そういうわけで、イソップより「鳥と獣とコウモリ」です。他に「卑怯なコウモリ」というタイトルもありますね。

 昔々、鳥族と獣族が縄張り争いをしていた。
 コウモリは鳥族が有利になると、自分の翼を見せて鳥族だと言い、獣族が有利になると羽毛のない自分の身体を見せて獣族だと言った。
 やがて、両者の間に和解が成立すると、状況に応じて有利な方にいい顔をしていたコウモリはどちらからも相手にされなくなった。
 追われる身となったコウモリは、暗い洞窟の中で暮らすようになった。

 ときどき八方美人と混同されますが、八方美人は全方位に常時いい顔をするのに対し、蝙蝠は強い方にだけいい顔をしているところが違いますかね。
 寝返りを繰り返したことで蝙蝠は双方から追いだされてしまうわけですが、しかし、世の中にはスパイだの二重スパイだのがあります。蝙蝠には獣族にはない翼があり、獣族に偽装できる体毛があるのです。その他に超音波を用いたエコーロケーションもあり、どちらの陣営に対しても、彼は自分を売りこむ武器に事欠かなかったはずでした。

 しかし、蝙蝠はどちらからも相手にされませんでした。信用できないと思われた、ということですが、これにはちょっと疑問があります。
 強い方への寝返りを繰り返したということは、鳥族についたときも、獣族についたときも、たいした活躍をしなかったか、活躍が非常に目立たないものだったということです。勢いのある方に味方したら、よほどのことをしないと埋もれるだけですからね。
 それに、目立つような戦果をあげていれば、寝返りが簡単に成立することもないでしょうし、敵にまわったときは真っ先に狙われるでしょう。かつての味方の情報を知っているわけですからね。蝙蝠自身、寝返りを成立させるために、なるべく目立たないように振る舞っていたと思われます。この行動によって、人格面だけでなく、戦力としてもあてにならないと蝙蝠は思われたのではないでしょうか。

 目立たないように振る舞うことはひとつの手です。目立つのもいいことばかりではありませんから。ですが、そのように動くならば、蝙蝠は何らかの形で成果を見せるべきでした。追いだすのは惜しいと、思わせるだけのものを。
 蝙蝠の過ちは、寝返りを繰り返したことではなく、それぞれに自分の存在を認めさせるだけの行動を起こさなかった点に尽きると思うのです。それができなければ、両者の間を行き来するべきではなかったのでしょう。



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by tsukasa-kawa | 2017-12-20 02:58 | 日常雑記

12月18日のお話

 なんとなく気が乗らないのでブログの更新をずるずるさぼっていたら、いつのまにやら12月ももう後半ですよ。新年が迫ってますよ。クリスマス? おもにフライドチキンを売っているお店に行列ができる日のことですね。僕が以前住んでいたところではそうでした。小さいころはいつかお金持ちになったらバレルで買って一人で一気食いしてやるんだなどと思ったこともありましたが、いまはまあ一食において二つも食べれば割と充分だよね。ぎりぎり挑戦できる年齢のうちに挑むべきなんだろうか、ううむ。

 そんな鶏肉談義はさておいて、どうにか前回までに10月の宿題は終えたので、11月にちょこっとやったあれこれをすませなければなりません。年内に(間に合うかな?
 本日は「スイミー」。作者はレオ・レオニ。富野作品かな?(失礼だねキミは  ではまいりましょうか。

 スイミーは全身が真っ黒い小さな魚。たくさんいる兄弟たちは、みな赤い。
 ある日、大きなマグロが現れて、兄弟たちをみな食べてしまう。スイミーだけが逃げきった。
 あてどもなく海をさまよっていたスイミーは、兄弟にそっくりな赤い魚の群れを見つけて遊ぼうと呼びかける。
 しかし、彼らはマグロを恐れて岩陰から出てこない。
 そこでスイミーは、マグロを追い払うべく、大きな魚に偽装することを提案する。黒い自分が目になると言って。
 はたしてマグロはだまされ、去っていきました。めでたしめでたし。

 僕は昔から本を読むのが好きだったのですが、そのせいか国語の教科書を読むのはそれほど苦じゃなかったんですよね。落書きはもちろんたくさんしましたが。とりあえず髭生やすよね。あと目。川端康成とか目を凶悪にするだけで悪の老魔道師っぽくなってさあ……。脱線しました。
 しかし教科書に載っていなければ読まなかったような作品というのは、40を目前にした年になって振り返ってみると山のようにあるのですが、スイミーなんかはその筆頭だと思うのですよね。だって外国の絵本だもんよ。で、本編ですが。

 大きいことはいいことだ。えっへん。
 しかし、魚って色を識別できるのかいなという疑問がありますが、おそらく自己防衛のためにカラフルな鱗を持つ個体がいる以上、そのへんの識別はできるのでしょう。では厚みについてはどうか。いくら自分より大きくても、平たい魚ではものともしないのではないでしょうか。
 スイミーたちが化けた魚の厚みは、とくに言及されていません。しかし、マグロは逃げていきました。充分な厚みがあったのか。それとも他に理由があったのか。
 気になるのはスイミーの役目です。この子は小さな魚と書かれています。たとえ化けた魚が薄っぺらかったともしても、両目の役目を果たせるとは思えません。また、左右に動きまわっていては仲間たちが混乱してしまうかもしれず、下手をすれば一網打尽に食われてしまいます。
 となれば、右か左に自分のポジションを固定し、隻眼となってマグロを威圧したのではないでしょうか。スイミーにとって、マグロは兄弟たちの仇でもあります。そうとうな眼力となったでしょう。
 そう考えると「スイミー」は団結力の尊さや、まわりと違うことも考え次第で活かせるんだ、ということを伝えるお話ではなく、敵を圧倒するのは決意であり凄みであるということを伝えるお話なのかもしれません。



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by tsukasa-kawa | 2017-12-18 23:59 | 日常雑記

11月14日のお話

 ひとに魚を与えれば、一日の糧となる。ひとに魚を捕ることを教えれば、一生食べていくことができる。

 中国の老子が残した言葉といわれることもありますが「老子」にはこのような記述はないそうです。また、アフリカの諺であるともいわれますが、それについては確認できていません。もっとも、魚を捕って暮らすところであれば、たいていのひとがわかっていそうな、そして当たり前のこととして語り継いでいそうな気もします。まあ有名人が言ったっていえば不思議な説得力がつくからね。

 さて、いよいよ秋も深まってきましたが、いかがお過ごしでしょうか。場所によっては紅葉もずいぶん見ごろになっているのではないかという気がします。僕は自宅からたいして離れていませんけどね! そんなことはいいんだ。

 それでは今宵はグリムより「星の銀貨」です。
 親はなく、住むところもなく、食べるものといえばもらいものの小さなパン、着るものといえばいま身につけているものだけ。そんな少女があてどもなく荒野を歩くところから物語ははじまります。
 少女はお腹をすかせた男に出会い、持っているパンを渡して歩きだします。しばらくして、寒がっている少年に出会い、自分の服を与えて歩きだします。またしばらくして、やはり寒がっている少年に出会い、自分の下着を与えます。
 少女がその場に立ちつくしていると、星が彼女のそばに降ってきます。少女の行いをよしとした神様の力によるもので、星の光は銀貨となり、少女は裕福に暮らしたのでした。

 俺たちゃ裸がユニホーム! たまにゃ夜風に凍えるけれど 善意 善意 善意ひとつが財産さ
 文字通りの裸一貫になるまで善意に対する報いがないとか、ちょっときつくないですかね。まあアダムとイブの時代から服には否定的だけどさ、神様。
 少女の行いそのものは素晴らしいと思います。ただ相手のためだけを思い、ほどこしを与える。自身も貧しい状況でそうそうできることではありません。見返りを求めないというよりも、見返りという発想自体がないのでしょう。ぶっちゃけ最初のほどこしの時点で銀貨の雨が降り注いでもいいと思うぐらいです。

 しかし。少女の思いやりとは別に、パンは食べてしまえばそれで終わりです。パンをほどこしてもらった男は、明日にはまた飢えるのでしょう。服をもらった少年は、つまり服すらなかった少年は、パンを得るために遠からず服を手放すかもしれません。下着をもらった少年も同じことです。彼らのもとに銀貨は降りません。
 少女は、そのとき自分にできる精一杯のことをしたのでしょう。ですが、明日も、明後日も生きていこうとするのならば、他の手段があったかもしれない。協力しあって動物なり魚なりを捕るような。そして、それは手元にパンがあるような余裕のあるときでなければ、難しいことでしょう。余裕がなかったらたいてい物質的な欲望の充足が優先されますからね。夢で腹がふくれるかい、同情するなら金をくれってもんですよ。
 もしも少女が男とパンをわけあい、助けあって、新たな食糧を得るための行動を起こしていたら、また別の話が展開していたでしょう。
 それを神様が賞賛するかどうかはわかりませんが、勇気や意欲を与えることは、ものを与えることに劣らないのではないでしょうか。



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by tsukasa-kawa | 2017-11-14 00:52 | 日常雑記

11月12日のお話

 ごまを開く、もしくはごまを開ける、って何でしょうね。
 だって、ごまですよ。ごま。殻を爪でこじ開けるんだとしても、それって割るとか潰すとかいうんじゃないかな……。
 ここでごまを開くってどういうことだよぉーっ、納得いかねえーっとギアッチョごっこをしてもいいんですが、深夜にテンションが無駄にあがってしまいそうなので早々に本題に入りましょう。はい「アリババと四十人の盗賊」です。

 お話は、真面目な働き者だけど貧乏なアリババが、近くの山で薪を集めていたところ、盗賊たちを発見してしまうところからはじまります。
 そこで盗賊の親分が洞穴に向かって唱える合い言葉(現地ではシムシム、貴様の門を開けろ、というらしい。シムシムとはごまのこと)を聞いたアリババは、盗賊たちが去ったあと、洞穴に向かって合い言葉を唱え、洞穴の中にあった財宝を手に入れ、大金持ちになるのです。
 この話を聞いたアリババの兄カシムはさっそく洞穴に向かい、財宝を手に入れたものの、洞穴の中で合い言葉を忘れてしまい、帰ってきた盗賊たちに殺されてしまうのでした。
 その後、このお話はアリババに対する盗賊たちの逆襲と、機転を利かせてアリババを助け、盗賊たちを撃退する女奴隷モルジアナの活躍が描かれ、めでたしめでたしとなります。

 冒頭で難癖つけましたが、開けごま、って呪文は非常にいいと思うんですよ。ごまっていったら、割るとか潰すとかするとかじゃないですか。言葉の組み合わせ的にちょっと思いつかないもの。だからカシムもうっかり忘れてしまったのでしょう。
 でも、四十人もいて秘密の呪文を聞かれてしまうのは正直どうよ。だって秘密の呪文ですよ。現代風に言うなら金庫の暗証番号ですよ。56513みたいな。部下にも知らせず自分だけが知っていることにしてもいいぐらいでしょうに、盗賊たちから身を隠しているアリババに聞こえるほどの声で呪文を言ってしまったのが、この親分の失敗です。本人が洞穴に意識を向けているとしても、三十九人を見張りに立たせるとかさあ。

 開けごまの呪文を、盗賊の親分が考えたのか、それとも誰かが洞穴ごと考えたのを親分が偶然知ったのか。それはわかりません。
 ですが、洞穴と呪文を親分は使いこなせませんでした。結局、財宝はそれを使いこなせるひとのもとに落ち着くということなのでしょう。情報過多の時代ですが、せめて自分のまわりの情報ぐらいは御したいものです。



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by tsukasa-kawa | 2017-11-12 01:18 | 日常雑記

11月9日のお話

 拍手レス
>最初期の赤ずきんは猟師が出て来ず狼が赤ずきんを食って終わりらしいですね
>これだとお話としては赤ずきんとお婆さんがヤバい怪物に遭って食われて死にましたとかいうなんの面白みもない話に…
>お話としての面白みの為にはヤバい怪物を銃という力でねじ伏せる猟師は必要だったのでしょうね。やはりこの世は力が最後に物を言う…!

 赤ずきんにブローニング銃を持たせたジェームズ・サーバーは正しかった!?
 おそらく最初期は、不用意に森に踏みこんではいけないという教訓を持った物語だったのでしょうね、赤ずきんは。ちょっと物語性を持たせようとして狼に知性と力を与えてしまったらバランスが大変なことに……。あるいは、寝こんでいたお婆さんが、元気だったら実はめっちゃ強いとかそんな語り継がれなかった設定があるのかもしれません。

 ところで、ニュースを見ていたら来週からは一気に真冬なみの寒さになるとかいわれて今から鬱々ですよ。まだ僕はスポーツにも芸術にも親しんでいないのに。あ、食欲についてはお肉を食べるなどしているので割と堅調です。
 天気についてさらっと流したところで、10月の宿題をまたひとつかたづけるとしましょうか。イソップから「ろばを売りに行く親子」です。
 タイトルだけでは首をかしげるかもしれませんが、話を聞いてみたら、聞いたことがあるという方もいるかもしれませんね。ざっとこんな感じです。

 昔々、父親と息子がろばを売りに行くことにした。
 二人でろばを引いて歩いていると、通りすがりのひとから「ろばに乗りもせず、歩いているなんてもったいない」と言われた。
 それもそうだと思い、父親は息子をろばに乗せたが、通りすがりのひとから「元気な若者が楽をして、父親が歩くなんて」と言われた。
 それもそうだと思い、父親がろばに乗ったが、通りすがりのひとから「子供を歩かせて自分が楽をするとはひどい父親だ」と言われた。
 それもそうだと思い、今度は二人でろばに乗ったが、通りすがりのひとから「二人も乗るなんてろばが可哀想だ。楽に運んでやればいい」と言われた。
 それもそうだと思い、二人はろばの脚を棒にくくりつけてひっくり返し、二人で棒を担いで運ぼうとした。ろばは暴れて川に落ち、死んでしまった。

 正解はひとつ!じゃない!!
 この親子は途中でぶち切れてもよかったんじゃないかな。余計なお世話じゃけえ!とか何とか言って。
 興味深いのは、通りすがりのひとたちの意見は、最後のものを除けば間違ったものではない、というところでしょうか。そして、このような、複数の正解が用意されているものというのは世の中にけっこうあると思います。もちろん、正解がひとつだけという問題もあるでしょうが。

 あえて教訓を求めるとすれば、自分の意志、考えをはっきり持っておくということになるでしょうか。
 ひとの意見を聞き入れることは大切ですし、それについてはこの親子の態度は美点といっていいでしょう。最後の意見についても、まあ意見そのものに問題はなかったと思いますし。
 ただ、この親子はろばを売りに行くわけです。できれば高値で売りたいわけです。たぶん。
 それには、ろばをあまり疲れさせないで市場で元気に見せるか。ひとを振り落とさないろばだとアピールするためにどちらかが乗るか。あるいは、あえて二人で乗っていき、ろばの頑丈さを見せつけるか。いろいろ考えられると思います。それについて決めていれば、取り入れる意見とそうでない意見をわけることができたのではないでしょうか。

 何を目的とするか。そのために何を優先すべきか。僕もそうですが、ひとはあらゆる場面で迷いがちです。有用な意見があれば、それをどんどん取り入れてしまいたくなります。取り巻く状況も刻一刻と変わりますからね。正解はまだまだいっぱいあって、それらを解き明かすために冒険も必要になるでしょう。
 ただ、それによって当初の目的から外れては、多くの場合ろくな結果になりません。
 そういったことを、このお話は伝えたかったのかもしれません。
 まあ正解はひとつじゃないだろうけれどね。



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by tsukasa-kawa | 2017-11-09 23:59 | 日常雑記

11月8日のお話

 ネーズーミーが出たぞー!
 ネズミの脅威といったら、さいとうたかおのサバイバルがやはり群を抜いて上手いというか恐ろしく描いていると思うんですよ。食糧を食い荒らし、相棒のフクロウを叩き潰し、昼夜かまわず少年を脅かすネズミの大群。結局、少年はねぐらを放棄するしかありませんでした。まあ対処しようがねえっすよアレ。現代でもネズミっておっかないし。二次元でも別の意味でおっかないし。そりゃあ二十二世紀の猫型ロボットも地球破壊爆弾を持ちだすってもんですよ。ドラえもんは おどろいて からだが まひした!

 まあネズミについて話すのはこれぐらいにしておいて「ハーメルンの笛吹き」です。
 有名な話なのでみなさんご存じだと思いますが、ドイツはハーメルンの町にネズミが大繁殖し、にっちもさっちもいかなくなっているところへひとりの笛吹きが現れ、謝礼をくれるならと人々と契約し、笛でネズミの群れを誘導して川へどぼん。しかし町の人々はネズミの脅威がなくなったら契約を忘れて出てけ出てけの大合唱。笛吹きが再び笛を吹くと、今度は町の子供たちが笛吹きに誘導され、彼とともに町を去ったとさ。とっぴんぱらりのぷぅ。と、そんなお話ですね。

 笛吹きに連れ去られた子供たちの行方はわかりません。町の外にある洞穴へみんな入っていき、その洞穴は内側から閉ざされ、誰も二度と戻ってくるとはなかった、とも、一人か二人だけが帰ってきて、この話を語り継いだともいわれています。
 なぜ、笛吹きは子供たちを連れ去ったのか。
 話を見るだけならば、町の人々が約束を守らなかったため、報復として連れ去ったのでしょう。まして町の未来を担う者たちをがばっと(といっても130人らしいので根こそぎというほどではないと思うけども)連れ去ってしまえば、町の衰退は避けられません。生まれたばかりの子供がそこそこ大きくなるのに10年、そこから町を支えるひとりの若者として成長するまでにさらに5~10年と考えると、おっそろしい話です。

 子供たちが連れ去られた、ということについてはさまざまな説があります。東方への移民団に参加した、十字軍に参加した、流行病(ネズミと絡めてペストを示していると思われる)で亡くなったのを、笛吹きを死に神になぞらえてこう表現した、などなど。
 さまざまなバージョンの旅立った説についてですが、ハーメルンの子供たち、というのは江戸の町人を江戸っ子と呼ぶような比喩表現であって、実際は青年に相当する男女が新天地なり冒険なりに賭けたんじゃないの、という考えのようです。

 とはいえ、それならどうしてそう語り継がれなかったのか、というのが不思議ではあります。すごい笛吹きに誘われて、子供たちが夢と希望を抱いて東へ旅立った……という話にすることに、何か不都合でもあったのでしょうか。子供たちを売買(児童を奴隷として売り買いするのは、当時では割とあることだった)したのだとしても、何百年後かに書き綴るならともかく、隠すようなことではないはずです。

 流行病の婉曲的な言い回しでない場合。
 この記録を残した者にとって、子供たちは笛吹きによって連れ去られたのでなければいけなかったと、そう考えることはできないでしょうか。
 たとえば、と想像をふくらませてみます。町にとって不名誉なことは、子供たちが大人に愛想を尽かすことでしょう。大人たちはネズミをろくすっぽ退治できず、笛吹きとの約束も守らないという二重の醜態を見せました。子供たちは、この町に、あるいは自分たちに未来がないことを漠然と感じとったのかもしれません。
 一方で、子供たちから見れば笛吹きはヒーローです。大人たちが手をこまねいていたネズミを、たやすく一掃したのですから。頼もしく見えたのではないでしょうか。町を捨ててついていくと決意した可能性はあります。まあ、ネズミが一掃されても、それだけネズミがはびこった=衛生環境的にアレな町ってのは変わってないでしょうからね……。もちろん、子供たちに見限られた、なんて記録に残すのはつらい、それなら連れ去られた、と書いた方がいい。
 先に書いた通り、想像です。ですが、もしかしたら、ハーメルンの笛吹きはそういうお話だったのかもしれません。



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by tsukasa-kawa | 2017-11-08 23:58 | 日常雑記

10月25日のお話

 学校から出た課題を、家族の方にやってもらったことはありますか?
 たとえば自由工作とかいわれるアレ。ちょっと暇な時間のできたママが「よーし、息子のためにがんばっちゃうぞー」とか妙に張り切っちゃって帆船模型とか作ってくれちゃって旗をコーヒー豆で染めるみたいなテクニックを披露して、いらないよとも言えないので学校に持っていったら、先生から「おまえにできるわけないだろう」と当然のように看破される……。そんな体験をしたことはありますか? 僕はありません。
 もっとも、これが受け入れられてしまっても、あとがつらい。ある日突然「おまえ、できたでしょ。やってよ」と言われると、立ち往生するしかありません。そのときにはママは忙しいか、当時の熱を失っているからです。
 当事者に近しい技術がなければ、どこかで破綻してしまうのです。

 さて、ここんとこさぼりがちになって申し訳ないですが、お仕事などあるのでできればご容赦ください。前にも言いましたが、来月本が出ます。いずれちゃんと宣伝します。その折にはよろしくお願いします。

 淡々と宣伝したところで「靴屋の小人」です。腕はいいけど貧しい靴屋が、最後の一足を作ろうとして準備をすませて寝たところ、起きたときには見事な靴ができていた、しかもそれはその日に高値で売れたという、夢の詰まった話です。誰もが一度は「俺が寝ている間に小人が何とかしてくれないか」と思ったことがあるのではないでしょうか。
 この靴屋は、もともと高い技術の持ち主だと書かれています。バージョンによっては、いいものを作るけど、流行りをつかめなかったので売れなかったとも。それゆえに、小人がいなくなったあとも商売を続けることができたと。もしも靴屋に技術がなければ、小人がいなくなったときに破綻していたでしょう。
 しかし、このことから伝わるのは、いいものであっても、必ずしも売れるわけではないという、あまりありがたくない事実です。どこかで知られなくては、商売は成り立たない。いい靴を作ったことよりも、客が来るようにしたことこそ、小人の成果かもしれません。

 靴屋は裕福に暮らしたと伝えられています。しかし、小人の靴で人気を得た以上、彼は少なくとも、それに劣らないものを作り続けなければならなくなったのではないでしょうか。質の上でも、デザインでも。ちょっとでも手を抜けば、腕が落ちたといわれてしまいます。よい技術を持っている靴屋に、それは耐えられることでしょうか。靴屋自身の話は、ここからが本番になるのでしょう。結末はそれでよいとしても。 


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by tsukasa-kawa | 2017-10-25 23:59 | 日常雑記