8月31日のお話
2017年 08月 31日
僕はだいたいすっぽかしていましたね。20年以上も昔の話です。以前にも愚痴ったかもしれませんが、だいたい読書感想文なんて何書けばいいのかわからなかったもの。あと、思ったことを素直に書けばいいっていうのも当時は鵜呑みにしていたし。書き方がわかった高校生のころはもう読書感想文なんてなかったし。
そんな月末ですが、さて牛の首です。
2ちゃんねるに親しんでいたひとには鮫島事件、世にも奇妙な物語に親しんでいたひとにはズンドコベロンチョといえば、だいたいわかってもらえるかもしれません。
「昔、恐ろしい事件があったんだ。それを知っているひとたちの間では牛の首と呼ばれているんだがね……。内容は、いや、ちょっとここでは言えないな」
「牛の首か。悪いがあれについては話せない。ひどいものだったからな」
「ああ、牛の首ですね。名前だけは聞いたことあるんですけどね。何かすごい事件だったらしいですね」
こんなふうに「何かえらい話だったらしい」という噂だけが一人歩きして真相はまったく語られず、知られることがないという話です。
いやいや、このネット全盛の時代に?と思うかもしれませんが、ネットの記録など、かつて思われていたほどではないということがあきらかになりつつあります。プロバイダのサービス終了で、サーバーの容量の問題で、移転などに伴うデータ移行の失敗で、あるいはただのミスで、どれだけのデータが吹き飛び、復元が不可能となって消え去ったでしょうか。また、編集やねつ造、切り取りや上書きによって、どれだけの情報が歪んだ形で世に出回ってしまっているか。
裏取りをせず、流れてきた情報に飛びつき、誤りと知らずに拡散し、尾ひれや背びれがつくという状況は、情報の加速化によって悪化しています。記憶は嘘をつくといいますが、記録もたいがいなのです。
と、てきとうにそれらしいことをつらつら並べたところで話を戻しますと、牛の首がほとんどのひとに忘れ去られてもズンベロや鮫島が生みだされ、記憶に残るように「実体のない凄い話」は定期的に出てくるのでしょう。底の知れない噂話として。
もちろん話を自由につくることはできますが、元が実体がないのですから、自分以外の誰かも話をつくってきたら、どちらが本物かという流れになり、いずれどちらも偽物と判明すると思われます。
あるいは、何かしら力のある(ここでいう力とは、とくにオリジナリティや説得力のことではない)話がくっつけられて、ひとつの話として成立してしまったら、それは牛の首ではなく、新たな怪談となるのかもしれません。
おはようございます。怪談というと、牛の首と呼ばれるものがありますが、僕もこの話については詳しく知らないんです。ほとんどのひとは「あれだけは……」と口をつぐみ、話そうとしてくれた何人かも失踪したり、連絡がとれなくなったりということが相次ぎまして……。疑問を抱えつつ、本日もお仕事に。
— 川口士 (@kawaguchi_tsu) 2017年8月31日
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8月30日のお話
2017年 08月 30日
しかし、見たいとも思っていないのに幽霊が見えてしまうひとが、怪談には割といるのです。そして、そのひとたちは幽霊の存在に気づいてもそしらぬふりをするのですが、幽霊の方はすれ違いざまに「よくわかったな」やら「見えているくせに」やら言ってくるのです。嬉しそうだなおまえ。
この怪談の特徴は、人通りの多い場所で、幽霊は人混みにまぎれているというところでしょうか。たいてい幽霊のいるところってひとけがありませんからね。
そして、この種の幽霊は、ごくふつうの人間に対して積極的に姿を見せつけることができないようなのです。あるいは、たとえばタクシーに乗ってくる幽霊のようにいくつかの条件(時間的なものや環境的なものなど)がそろえば可能なのかもしれません。
しかし、なぜわざわざ話しかけてくるのか。気づいていないふりなんて無駄だ、と教えるのが目的でしょうが、恐怖感を与えるならば、むしろ無言でついてくる方がよほど怖い。幽霊の側が気づいているということも、それで教えることができます。
幽霊の行動からわかることは、自分は幽霊だという自覚がある、たいていのひとは自分たちに気づかないことを知っている、こちらが見たことに気づいている、すれ違うまで声をかけてこない、というところです。
すれ違いざまに何か仕掛けてくる可能性はありますが、それなら何か言うより行動した方がいいわけで、ただからかってきただけに思えるのですね。周囲の人間がばたばた倒れるようなこともないので、断言はできませんが無害に近い存在なのではないでしょうか。
とはいえ、他のひとには見えていないわけで、うっかり返事をしようものなら、怪談に巻きこまれる以前に「見えない何かに話しかけてるよ」と、周囲からヒソヒソささやかれてしまうでしょう。楽しいのは幽霊だけ。幽霊が見えても何もいいことないな、うん。
おはようございます。怪談というと、人混みの中にまぎれて立っている幽霊が見えてしまい、かつその幽霊から「よくわかったな」と言われるというものがありますが、人通りの多いところで誰かに見つけてもらうのを待っていたと思うと、なかなかいじらしいものがあります。それでは本日もお仕事に。
— 川口士 (@kawaguchi_tsu) 2017年8月30日
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8月29日のお話
2017年 08月 29日
そんな夜の山の中で車を走らせていたら、知らず知らず崖に誘導されていたというお話です。
やはりパターンがいくつかありまして、助手席で眠っていると思っていた友人や恋人が方向を教えてくれて、それに従っていたら~とか、カーナビの指示通りに~とかいう形で誘導され、突然前方に女の子が飛びだしてきてブレーキを踏んだらすぐ近くが崖だったというものと、指示通りに車を運転していたら崖に飛びだしそうになったというのが多い感じでしょうか。「死ねばよかったのに」という声で締めくくられるところは共通しています。
山の死霊に誘導されたというわけですが、どのパターンでも運転していた人物を仕留めきれなかった点、余計なことを言ってしまい、幽霊の仕業だったと悟らせてしまった点が、幽霊の甘さ……言い換えるならドジっ子である部分を強調しています。
もちろん怪談なのですから、今回の当事者には助かってもらって語り継いでもらわなければ困るわけですが、これでは語り継がれるのがドジっ子であることばかりです。本人も言ったあとでしまったと思ったのではないでしょうか。やはり「ブレーキ踏めたんだ。珍しいわね」ぐらいのことを言って、余裕を見せてほしいものです。これはこれで四天王の一人目っぽい感じがしてしまうのですが。
おはようございます。怪談というと、山の中で車を走らせていたら崖まで誘導され、ぎりぎり車を止めたところで「死ねばよかったのに」と幽霊につぶやかれるというものがありますが、下手に捨て台詞を残してしまうと手口までモロバレになるという教訓は大切にしたいところです。では本日もお仕事に。
— 川口士 (@kawaguchi_tsu) 2017年8月29日
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8月28日のお話
2017年 08月 28日
筋立て自体は昔からあるもので、夏目漱石の夢十夜にも似たようなお話があったと思います。「お前が俺を殺したのは、今からちょうど百年前だね」だったかな。
子供からしてみればどうしても一言言ってやりたかったのでしょうし、その気持ちもわかります。しかし、聞き手を驚かせ、怖がらせて終わりな怪談ならともかく、その先も続くとしたらどうでしょうか。親は子供に対して「何をどこまで知っている」と疑い、子供は子供で「また殺すつもりじゃないだろうな」と警戒し、一家の団欒どころではありません。
生まれ変わりのメリットというのは「生まれ変わる前の知識や経験を持っている」ことですが、生まれてすぐ殺された身ではそれも望めません。ジョジョ4部よろしく「パパと一緒にお風呂に入ろうか」とか言われて無防備な状態で一対一を強いられたらアウトです。生まれ変わる間に何かしら特殊能力に目覚めるかでもしなければ、すぐにやられてしまい「また来たの。早かったね」などと三途の川の渡し守に言われかねないのです。
とはいえ、黙っていても子供の方は事実を知っているわけで「何かの拍子に殺しにかかってくるかもしれない」と思えば、ストレスがたまる生活になるのは間違いありません。復讐してやるという決意と覚悟を持つなら(そうなるとサスペンスですね)ともかく、そうでないのなら、やはり、まったく関係ない家庭に生まれ変わるのがベターなのでしょう。なに、今ならハガキでもネットでも告発はできるって。
おはようございます。怪談というと、理不尽な理由で親に捨てられ、殺された子供が、二番目の子供として生まれ変わり「今度は捨てないでね」などと言うのがありますが、その後の子供の人生、親との対立などを考えると、あきらかに生まれ変わる場所を間違えた感が漂います。それでは本日もお仕事に。
— 川口士 (@kawaguchi_tsu) 2017年8月28日
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8月27日のお話
2017年 08月 27日
小人が出てくる怪談としては、窓の隙間などから入ってきて人間をズタズタにする一寸ババアなどがいますが、人間に危害を加える場合、怪談らしく身体能力が尋常でない場合がほとんどなので、そのへんで区別できるかもしれません。小さいおじさんの総称で語られる小人は「見た、驚いた、逃げていった」的なものばかりなんですよね。オカルトというよりメルヘンというかファンタジーです。語られるのが実体験もどきの話ばかりということもあるのでしょう。ガリバー旅行記かよ。
これらの小人が実在するとしたら、それこそ一寸ババアではありませんが、驚異的な身体能力が必要になると思うのです。天敵だらけで毎日がサバイバルだもの。小動物や虫でさえ難敵になりますからね、このサイズ。
ですが、小人がこの世ならざるものであった場合。たとえばヨーロッパの妖精に代表されるような、そういったものを見たときには、知らず知らず彼らの世界に迷いこんでしまっているのだという場合。そういうところへの案内人としての小人は、これほどおっかないものはいないかもしれません。
おはようございます(だいぶ昼過ぎだ)。怪談というと、背丈10センチ前後の小さいおじさんの目撃談がありますが、アリエッティなどを見てもわかるように、ただ小さいサイズの人間というだけでは天敵が多すぎて過酷な日々しか想像できず、特殊能力がほしいところです。それでは本日もお仕事に。
— 川口士 (@kawaguchi_tsu) 2017年8月27日
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8月26日のお話
2017年 08月 26日
まあ、漁れば○○ばあちゃんみたいなのがいくつかあったり、細部だけ違うトイレ系の怪談がいくつかあったりするんだけど、何日もばあちゃんやトイレの話をするのもどうだろうという感じで、こんな感じの怪談が~みたいなノリでやるんじゃないかと思います。
で、タクシー怪談というべきものですよ。いくつかパターンがありまして、駅のタクシー乗り場またはひとけのない道で、女性がタクシーを呼び止めます。雨の日で女性は濡れているのが多い感じですね。で、多くは「家までお願いします」みたいなことを言ってどの道をどう進むのか運転手さんに指示を出し、着いてみたらそこは墓地や霊園だった、というオチですね。
変わり種だと自宅まで向かわせて、財布を取ってくると言って家に消え、焦れた運転手が家を訪ねてみると、娘さんの両親が現れて事情を聞き、娘はとうの昔に死んでいると告げる……なんてのもあります。
とまれ、この娘さんの霊ですよ。目的地が家だろうと墓だろうと、帰るのになんでわざわざタクシーを使うのか。自力で移動できないか、移動できるけどあえてタクシーを使っているかの二択が考えられます。適当なトラックにヒッチハイクよろしく乗って、遠くへ行ってしまうのは避けたいのでしょう。
移動できないのでタクシーを使うのは、わかります。運んでもらうことで移動できるタイプということなのでしょう。
あえて使っている場合ですね。この手の怪談で、運転手に何らかの危害が加えられた、というものはほとんど見ません。危害を加えるために出現したわけではなさそうです。どうせ無賃だから楽をしたかったか、運転手をからかってみた、あるいは車がすごく大好きだったか、というあたりでしょうか。
このアクションが連日繰り返されている場合は、スタート地点に戻されて毎日同じことをしている、と思われますが(そうでなかったら、毎晩スタート地点に自力で戻っていることになってしまい、ますます愉快犯に……)、それでもタクシーを使う理由は、上記のどれかになりそうです。そして、どれだったとしても、かなりイイ度胸の持ち主ということで、生前から楽しい人生を送っていたのではないでしょうか、この子。
おはようございます(昼だ)。怪談というと、タクシーに乗って墓地へ向かう幽霊がありますが、距離の概念なんてあってないような存在なのにわざわざタクシーを使うあたり(話によっては毎晩)、愉快犯か、無限ループにはまってスタート地点に連れ戻されるものという印象です。それでは本日もお仕事に。
— 川口士 (@kawaguchi_tsu) 2017年8月26日
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8月25日のお話
2017年 08月 25日
そんな僕の私的な出来事はさておいて、赤いちゃんちゃんこです。どうでもいいですが、僕がちゃんちゃんこというものを初めて知ったのはゲゲゲの鬼太郎でした。とくに印象づけられたのはファミコン版の妖怪大魔境ですね。やったひとならわかると思いますが、ゲタと並んで使いづらい武器のツートップですよ。強いんだけど。当時小学生だった僕は指鉄砲と火炎ばかり使ってました。話を戻しましょう。
トイレに入ると「赤いちゃんちゃんこ着せましょか」という声が聞こえてくる。「はい」と答えると、天井からナイフが降ってきて血まみれになり、あたかも赤いちゃんちゃんこを着たように見える……というものです。バージョンによっては「いいえ」と答えると「はい」と答えるまで出してもらえず、延々同じ質問が続くという、まるで初期RPGのような状況に陥るらしいですね。
しかし、ちゃんちゃんこ。はたして今の子供たちは知っているでしょうか。というか目にする機会があるでしょうか。もう今では還暦祝いで役所が送ってくるぐらいしか見る機会ないんじゃないかと思うのですよ。だいたい「何それ」と聞かれてしまっては怖さも薄れてしまいます。これはちゃんちゃんこが悪いのではなく、ファッションの変遷の問題であって、たとえばブツを変えて「赤いパンタロン穿かせましょか」とやってみても、やはり「何それ」になってしまうでしょう。ファッションは怪談以上にうつろうものなのです。
しかし、こだわってちゃんちゃんこにするのも、それはそれでひとつの手かもしれません。中途半端に古いと「赤いジャンパー着せましょか」「ジャン……パー? え、なに? ああ、ブルゾンのこと? 昭和っぽいね」という会話になりかねませんからね。
おはようございます。怪談というと、赤いちゃんちゃんこがありますが、そもそもちゃんちゃんこというものを最近の子供たちが知っているとは思えず、やはりジャケットか何かに言葉が変わるのでしょうか。子供たちの疑問を無視してでもちゃんちゃんこにこだわるのでしょうか。それでは本日もお仕事に。
— 川口士 (@kawaguchi_tsu) 2017年8月25日
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8月24日のお話
2017年 08月 24日
というわけで三本足のリカちゃん人形ですよ。いまはネットでリカちゃん人形の構造が簡単に調べられるので、腰パーツに新しい足をはやすのってどんな事故だよと思うぐらいですが、諸々のチェックを通過してお店に並んでいる人形を買ってみたら第三の足が生えていた、とあってはたしかにオカルトです。
大きさや原材料次第では「道鏡は座ると膝が三つあった」みたいなネタになりかねませんし、パターンによっては(齢50のリカちゃんだけあって三本足にも何パターンかあります)人間の肉で作られた足が生えていた、などというものもありますが、ここはまあ順当に他のまともな足と同じ大きさと原材料のものが生えていたと仮定しましょう。
しかし、彼女は人形です。人間ではなく。もしも第三の足が腰と一体化していたとしても、人形の構造に従って、腰から下をまるっと換装するという荒技が彼女は可能なのです。下半身パーツを消耗品として扱ったVガンダムのように。
パターンによってはこの三本足のリカちゃん、「私、呪われてるの」とか言いだすらしいのですが、呪った方もパーツ交換については考えなかったのでしょうか。それとも呪われてるからもう一体人形を買ってくれというアピールなのでしょうか。
まあ、換装で呪いが解けるわけでもないので、新しいパーツにも第三の足が生えてくるかもしれません。だとすれば、リカちゃんと組んで呪いを解くか(そんな漫画があったね)、リカちゃんに足を生やしたまま過ごしてもらうかを選んでもらう形になるでしょう。
後者を選んだ場合、第三の足が右足か左足かはわかりませんが、靴は二足分買わなければならず、スカートも大きなものにしないと駄目。ズボンは穿けない。タ○ラトミーが誇るファッションモデルの権威ががた落ちです。
とはいえ、彼女はいろいろとネタにされながらも(リカちゃん電話って怪談もありましたね)たくましく生き抜いて女の子たちに夢を与え続けてきた、この道50年のベテランです。三足目の靴だけ変わったものにしたり、足にリボンを巻くなどして魅せ方を考え、新たなファッションを展開するかもしれません。
おはようございます(昼だ)。怪談というと三本足のリカちゃん人形がありますが、ファッションドールであるところの彼女は、どうコーディネイトすればあまり不自然に見えないかということをまず考えたのではないでしょうか(足の位置にもよるけど)。それでは本日もお仕事に。
— 川口士 (@kawaguchi_tsu) 2017年8月24日
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8月23日のお話
2017年 08月 23日
さて、四谷怪談です。僕もあらすじだけは知っていたのですが、やはり古典だけあってさまざまなバージョンがあり、忠臣蔵の外伝のような扱いをされているものもあるようです。
また、怪談の元ネタとなったらしい実在したお岩さんは、実際には旦那さんとは仲睦まじく、二人でがんばってお家の復興を成し遂げたそうですね。当時はご利益があるとされ、お岩稲荷という信仰まであったとか。
とまれ、怪談の方です。こちらでは仲睦まじいなんて言葉はかけらもなく、
・産後のひだちで病気がちになったお岩を、夫の伊右衛門は疎んじるようになる。
・そんな折、伊右衛門はある武家の娘と恋仲になる。娘の父親も二人のことを認める。
・伊右衛門はお岩のもとにひとりの男を使いに出して、不義密通をさせようとする。
・一方、娘の父親はお岩に薬と偽って毒薬を送る。その薬を飲んだお岩は顔が醜く崩れる。
・伊右衛門の使いの男は、醜い顔になったお岩を見ておびえ、伊右衛門の計画を暴露する。
・お岩は半狂乱になり、その使いの男と争ううちに命を落とす。
・伊右衛門はお岩の死体を、盗賊の死体とまとめて板にくくりつけて不義密通に見せかけて川に流す。
・伊右衛門は武家に婿入りするが、娘の顔がお岩の顔に見えて錯乱し、娘も父親も斬り殺す。
・伊右衛門は逃亡生活に入るも、川から板にくくりつけられたお岩の死体が流れてきて恨み言を吐いたり、店の娘や道端のかぼちゃや提灯などがお岩の顔に見えてしまうという現象に遭遇し、心を病む。
・お岩の妹の夫という人物が敵討ちとして伊右衛門を倒す。
長くなりました。伊右衛門が何をやったか、それによってどんな目にあったかを書き連ねたからですが、まあ鬼畜といって差し支えないでしょう。お岩さんが化けて出るのもわかります。
ただ、お岩さんが幽霊と化してまでやったことを挙げると、
・武家の娘の顔が、自分の顔に見えるようにした。
・死体として流れてきて恨み言を吐いた。
・店の娘やかぼちゃや提灯が自分の顔に見えるようにした。
だけなんですね。怪談としてみればそれでも充分に怖いのですが、されたことを考えれば手ぬるい。
前述したようにバージョン違いはいくつかありますが、お岩さん自身が伊右衛門の命を奪ったものというのは、ちと見当たらなかったんですよね。もしかしたら見落としただけであるのかもしれませんが。
日本三大怪談と呼ばれているのが牡丹灯籠、皿屋敷、そしてこの四谷怪談なのですが、ターゲットの命を直接奪ったのは牡丹灯籠だけ。しかも牡丹灯籠は他の二作品とは違って復讐劇ではないわけです。むしろ近代、現代の怪談の方がターゲットを確実に仕留めてないかというぐらいですよ。
幽霊のできることは、対象の人間の罪を自覚させる、あるいは対象の罪を広く知らしめることであり、人間は人間によって裁かれなければならないという通念が、この時代にはあったのかもしれません。まあ「社会的に抹殺する」っていうのは、現代においても非常に有効ですし、当時ならなおさらだったでしょう。
その「社会的に抹殺する」を現代において実行するとなると、やはりネットやSNSの活用でしょうか。
現代ならば、お岩さんもネット掲示板やSNSに自分の顔のアップをガンガンあげて、伊右衛門を社会的に抹殺するところから復讐をはじめるのやもしれません。
おはようございます(昼だ)。古典的な怪談というと四谷怪談がありますが、お岩さんは定期的に自分の顔の幻覚を見せて、裏切った夫を追い詰めていったわけですが、環境の違う現代ではSNSに自分の顔の画像を割り込ませたり、モニターに映したりするのかもしれません。それでは本日もお仕事に。
— 川口士 (@kawaguchi_tsu) 2017年8月23日
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8月22日のお話
2017年 08月 22日
で、古典だけあって細部の違う話がけっこうあるのですが、番長皿屋敷だと、
・お菊という娘が下女として青山播磨守に仕える。
・お菊が播磨守の大切にしている皿を割ってしまう。
・播磨守はお菊の中指を切り落とし、それでも気がおさまらずに手打ちにすると言って監禁する。
・お菊はどうにか逃げだすも、古井戸に身を投げる。
・その後、古井戸から夜ごとに、皿の数を数える声が聞こえるようになる。また、播磨守の妻が産んだ子は中指を失った状態で生まれる。
・やがて、事件が公儀の耳に入って播磨守は所領を没収される。
・それからも古井戸の声は絶えなかったが、ある和尚が経文を唱え、皿を数える声に合わせて「十」と付け加えると、声は「あらうれしや」と言って、それきり聞こえなくなる。
だいたいこんな流れですね。
しかし、お菊が皿の数を数える理由って何だろうか。皿の数を数えて一枚足りないって嘆きたいのは、普通は皿を割られた方じゃないのか。
他の怪談がそうであるように、お菊もまた怨念や執念を抱いて化けて出てきたと思われるわけです。
皿を割ってしまったことを悔やんでいるのであれば、足りないなんて言い方をするでしょうか。足りないのはむしろ切り落とされてしまった指ですよ。
十枚の皿が、かつての平和な生活の象徴ということだろうか。しかし、子供の指、播磨守の破滅という話の流れからして、お菊が播磨守を恨んでいるのは間違いないのです。しかも、お菊は幽霊として現れながらも、播磨守に取り憑いて殺すというような真似はしません。播磨守は公儀によって裁かれ、破滅するのです。お菊の声がきっかけとなったにしても。
であれば、お菊の台詞は恨み言、なのではないだろうか。
皿の数を数える声は、今風に言えば告発状であり、自分が死ぬきっかけとなった出来事を広めるための宣伝文句だったのではないでしょうか。
だとすると、お菊は怨霊の中でもかなり狡猾な部類であり、優秀なコピーライターだったといえるのかもしれません。
おはようございます。古典的な怪談というと皿屋敷がありますが、ただ皿の数を数えるだけの台詞がこの怪談の象徴として語り継がれていることを考えると、最後に勝つのは単純明快なキャッチコピーであると思わされますね。世が世なら本の一冊でも出しているかもしれません。それでは本日もお仕事に。
— 川口士 (@kawaguchi_tsu) 2017年8月22日
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