一〇八(仮)

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ライトノベル作家川口士のブログです。「魔弾の王と凍漣の雪姫」9月21日発売となります。よろしくお願いします。

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12月28日のお話

 今年もあと三日とちょっとですよ。お店は三日前までからがらりと変わって年末年始を彩る数々の商品の宣伝に大忙しという感じです。かくいう僕も、今年は冬コミに参加するので、その宣伝をツイッターでやっていまして、ついでにここでも宣伝しておきますね。
 3日目東7ホールあ49a ウリボックス
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 こちら「折れた聖剣と帝冠の剣姫 異聞」のプレビュー本です。
 いくつかの掌篇小説がついたイラスト集ですね。
 一迅社さんでシリーズ刊行していた「折れた聖剣と帝冠の剣姫」の外伝としての位置づけになるもので、本編4巻で登場した某国の使者二人組を主人公に据えた物語になります。それゆえ「異聞」なんですね。この二人組の為人や日常の断片、いずれお出しする予定の長編の一片などをちりばめた構成になっております。
 また、こちらには美弥月いつかさんの描き下ろしクリアファイルがついてきます。 

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 それから、こちらは僕は参加していないのですが「シルビア神の怒り」と題したアイギス本になります。某所より引用した内容によると「第二兵舎で塩漬けにされたシルヴィアが王子たちに激怒したり、ナナリーに負けじとカノンが天才ちゃんの猛特訓を受ける話とか、ラピス様の脳内妄想劇場垂れ流しだったり、加えてもりたんの愉快だったりエッチだったりな挿絵とか美弥月いつかのこだわりすぎなシルヴィア挿絵満載」とのことです。特典ペーパー付き。こちらもぜひ。
 その他の詳細はこちらから。

 さて、今日はあらすじなんぞ不要といっていい有名な昔話「ごんぎつね」ですよ。狐のごんが首にからまったウナギと格闘している挿絵や、兵十がごんを撃ったあとに「ごん、おまえだったのか」とつぶやくシーンを覚えている方は少なくないだろうと思われます。
 まあ念のためにあらすじを書いておくとしましょう。

 これは「私」が小さい時に村の茂兵というお爺さんから聞いた話だ。
 昔、ごんぎつねというひとりぼっちの小狐がいて、夜でも昼でもあたりの村へ行って、芋を掘り荒らしたり、菜種に火をつけたり、いたずらばかりしていた。
 ある秋のこと、ごんは川で魚をとっていた兵十の隙を突いて、彼のびく(とった魚などを入れる容器)に入っていた魚やウナギを放りだしてしまう。
 十日ほど過ぎた日のこと、ごんは兵十の母が死んだことを知る。そして、兵十の母親はうなぎが食べたいと言ったに違いなく、兵十は母親にうなぎを食べさせようとしていたのだろうと思い、後味の悪い思いを抱える。
 それから、ごんは毎日のように栗やまつたけを兵十の家へ持っていき、気づかれないようにそっと置いていく。
 その日も、ごんは栗を持っていったが、兵十に見つかって撃たれる。そして、兵十は土間に置かれた栗を見て、ごんがそれらを持ってきてくれていたことを悟る。

 ちょっとごん君、想像力が豊かすぎませんかね。
 兵十の母親はうなぎが食べたいと言ったに違いないって、これ、ごん君の想像だかんな。もっと言えば、語り手である茂兵さんか、その話を聞いている「私」が盛った可能性があるかんな。芋を掘り荒らすのも当時の食糧事情を考えると即毛皮化って感じですし、菜種に火をつけるのは狐狩りへの第一歩って感じですよ。
 まあ想像だと決めつけてしまうと話が進まないので、事実であるということにしましょう。
 兵十の母親が亡くなり、兵十がごんと同じひとりぼっちになってから、ごんの「うなぎの償い」の日々がはじまるわけですが、これ、はたして兵十は、ごんが何のために毎日兵十に栗とまつたけばかり食わせるような日々を送らせたのか、気づいているのでしょうか。毎日栗を食べるってけっこうしんどい気がするんだけど、個人的な感想はちょっと横に置いておきましょう。
 兵十が栗やまつたけに感謝しているのは間違いありません。村人に、それは神さまがくださるんだと言われて信じていますからね。気になるのは、ここでも「たった一人になったのを哀れんで」という文が入っていることです。はからずも、村人の考えがごんが以前抱いた思いと一致しているんです。やっぱり茂兵さん、盛ってませんかね。
 このお話には何か教訓めいたものはなく、ひとりぼっちになってしまった二人の話を、その心が触れあった瞬間を語りたいということだったのではないかという気がします。だって、語り手か茂兵さん、だいぶごんに入れこんでいるしね。またはいたずら狐を葬り去るべく計画された狐狩りを止めるための狐の……いや、よしておきましょう。ごんは兵十のために何かをしようとした。兵十が母親のために何かをしようとしたように。そのままにしておく方がいい話も、ものによってはあるのでしょう。



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by tsukasa-kawa | 2017-12-28 23:59 | 日常雑記

12月27日のお話

 クリスマスはいかがでしたか。僕は幾人かと酒を飲んだりチキンやケーキを食べたりしていました。
 昔はクリスマスは友人同士だとか恋人同士だとかでぱーっと騒ぐものなんてイメージがあったのですが、最近はちょっとご馳走に奮発するけどそれほど特別ではない日という扱いらしく、恋人同士の逢瀬もクリスマスではなく曜日や他のスケジュールに合わせるとかで、それはそれでまっとうでござるなとしか言いようがなく。
 イベントとしての定着から、伝統行事、風習的なものへと変わりゆく、あるいは戻っていく時期に、僕たちは身を置いているのかもしれません。5年後、あるいは10年後には、さまざまな記念日などと同列に扱われているのかも。

 さて挨拶を終えたところで、今宵は「あの坂をのぼれば」です。「小さな町の風景」という題の掌篇小説集のひとつですね。「あの坂をのぼれば、海が見える」という一文を覚えている方もいるかもしれません。

 少年が、朝から山道を歩いている。
 小さいころ、祖母から子守唄のように「うちの裏の、あの山を一つ越えれば、海が見えるんだよ」と聞かされていた。 
 あるとき、少年は自分の足で海を見てこようと思いたち、山道を歩きはじめるが、山ひとつというのは言葉の綾だったらしく、行けども行けども海は見えてこない。
 もうやめようと諦めかけたとき、少年は次の峠を越えてゆく海鳥を発見し、再び歩きだす。

 正直、大雑把なあらすじを見るよりも原文をあたってほしい作品だと思います。情景、そして心理描写がこう、ときめくものがあるのですよ。
 そんな僕の感想はさておくとして、せめて地図は見ろや。
 いや、思いたったが吉日っていうのはわかりますよ。若さと勢いに任せて山へ飛びこむのはけっこうですよ。
 でも山を二つ三つ越えている時点でけっこうな難所だよね、ここ。水と食糧と帽子と登山靴ぐらいは必要なんじゃないだろうか。しかもここまでの描写で地元民らしきひとに会っていないあたり、使われていない山道ではないかという疑惑まで出てきますよ。鳥を発見してのくだりは感動するけど、旅人かおまえは。
 僕もいくつか山を登ったことはありますが(もちろんひとりではなくね)、高尾山ぐらいでも迷うときは迷うだろうなあと思うことがありまして。
 いまの時代なら電波さえ届けばスマホやガラケーで何とかなりそうなあたり、文明の利器と地図は大事ですよね。電波が届かなかったら? がんばれ。
 とはいえ、思いたって、その勢いのままで何かに挑戦してみるのはいいことだと思います。あと、地元民の感覚をうかつに信じてはいけない。



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by tsukasa-kawa | 2017-12-27 00:05 | 日常雑記

12月23日のお話

 ひさしぶりに往来で屋台のケバブを食べたんですが、これは肉(チキンかビーフ)と野菜(キャベツとトマト)と炭水化物(ピタパン)がほどよく合わさった完全食だと思うのですよ。ネックは食べたあと、しばらく息が香辛料くさくなるので、僕みたいな基本的に家で仕事をする人間じゃないと厳しいことかな。
 そんな「とりあえず今日食べたもの」で挨拶をすませたところで、お題に入りましょうか。「一本の鉛筆の向こうに」。

 まわりにある一本の鉛筆を手にとってみる。それができるまでには、多くのひとの苦労が、日常が、人生がある。
 スリランカのボダラ鉱山で働くポディマハッタヤさん。彼は黒鉛を砕いて採る仕事をしている。黒鉛は、鉛筆の芯の材料になる。
 ポディマハッタヤさんは七人家族で、彼は朝も夜もカレーを食べ、長男と次男を学校へ行かせている。
 アメリカはシエラネバダ山中で、きこりのダン=ランドレスさんは木を切り倒している。
 朝三時半に彼は起き、卵四つ、バナナ一本、牛乳二杯の朝食をすませる。
 トニー=ゴンザレスさんはトラックの運転手。切り倒されたヒノキの丸太をトラックに積みこみ、夜明けとともに製材所に向かって出発する。
 皮をむかれ、製材された木は、一年間乾かしたあとでスラットと呼ばれる板になる。スラットはコンテナに積みこまれ、船で日本へ運ばれる。
 山形県にある鉛筆工場では、スラットに溝をつけ、芯を入れ、もう一枚のスラットで挟みこみ、切り離す。こうしてできたそのままの鉛筆に色を塗り重ねて、完成品ができあがる。
 大河原美恵子さんはこの工場の塗装部門で仕上げの仕事をしている。
 一本の鉛筆を手に取ってみると、その向こうに大勢のひとの生活などが見えてくる……。

 黒鉛の採掘からかい! いっそ地球も参加させて炭素がいかにして黒鉛になるかまでも語った方がいいような気すらしてきます。気のせいですね。
 一本の鉛筆ができあがるまでにはこのような工程があり、世界中のさまざまなひとが関わっているのだ、と伝えるのはいいでしょう。そのひとたちの生活についても描写すれば、彼らにも家族があり、自分たちとは異なる形で食事をし、睡眠をとり、日々を送っていることもわかってもらえるかもしれません。
 でもポディマハッタヤとかゴンザレスのインパクトには負けるんじゃないかなー。あと、当時のスリランカじゃ朝晩カレーは日本の白米と同じ感覚ぐらいのはずとか、そもそも向こうのカレーと日本のカレーはまるで違うってのも追記しておいた方がいいような気もします。

 それにしても鉛筆って、いまどれぐらい使われてるんでしょうか。僕が鉛筆を使っていたのって中学生ぐらいまでで、それ以降はもっぱらシャープペンだったんですよね。小学校にはシャープペンを使わせず、鉛筆を使わせる風習があったけど。100円のシャープペンができたのが1980年らしいので、ちょうど僕ぐらいの世代が過渡期だったのか。もうちょっと前かな?
 鉛筆とシャープペンのどちらが便利かというと、難しいんですよね。シャープペンには、書いている途中で線が太くならないとか、手が汚れたりしないとか、いちいち削らずに芯を入れ替えればいいとか、いろいろメリットがあるのですけども、筆圧が強くても芯が折れにくいとか、鉛筆を適当にとがらせて斜めに寝かせて紙の上を走らせて黒い色をつけるとか(自分で書いててわかりにくいなあ)、六角形鉛筆に限定されますが、カッターで棒の部分に刻みを入れてサイコロ代わりにするとか、かつてのロシア人のように宇宙で使うとか……。
 時代の移り変わりとともに、主要となる筆記具は変わっていきます。かつては筆だったものが鉛筆になったように。それまで使われていたものが姿を消すということはないでしょうが、普及率が大きく下がってしまうことはどうにもならないのかもしれません。
 いつか、一台の電子端末ができるまでを書いた話が教科書に載る時代がくるかもしれませんね。



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by tsukasa-kawa | 2017-12-23 23:31 | 日常雑記

新刊紹介・他

 今年も残すところあと十数日となりましたが、いかがお過ごしでしょうか。年末年始は休日にする旨を発表したお店など出てきまして、僕の見聞する界隈では話題になっていますが、個人的にはおお、懐かしいのうという感じで。
 というのも僕が小学生ぐらいの時分、まあ30年ぐらい前ですね、そのころはそういうお店が珍しくなかったんですよ、だから年末の時点で買うもの買っておかないと冬休みの宿題に必要な道具がないのが後でわかり、新学期開始ぎりぎりでようやく文房具屋が開くのを待って駆け込み~なんてことがありました。そういう意味ではコンビニの存在は非常にありがたかったのですが、当時のコンビニは二十四時間じゃなかったし、いまほど仕事量も多くなかったしで、いまのコンビニと同じように考えるべきではないのでしょう。
 年末年始は稼ぎ時ではありますが、それにともなって無茶ぶりも多発してしまうので、今回の件はいいことだろうと個人的には思っています。
 世間話がすんだところで、昨日の20日は富士見ファンタジア文庫の発売日でした。
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細音啓   キミと僕の最後の戦場、あるいは世界が始まる聖戦3

 1、2巻から変わってミスミス隊長が表紙を飾る3巻。次巻は来年の春頃予定だそうで。興味を持たれたらぜひ。

 さて、冒頭の挨拶で無茶ぶりについて昔語りをしましたが、フィクションにおいても無茶ぶりは珍しいものではありません。むしろフィクションだからこそ多用されています。「40秒で支度しな」「3分間待ってやる」などはとくに有名でしょう。3分で何ができるっちゅうねん(弾丸を装填したり滅びの呪文を教えてもらったり)。新しいマシンや設備、緊急時のシステム使用等における「○日かかります」「その半分でやれ」は、何らかの作品でお目にかかったことがあるのではないでしょうか。
 そして、それは教科書に載るような作品でも同様なのです。というわけで「スーホの白い馬」まいりましょうか。

 ある日、遊牧民の少年スーホは、草原で白い子馬を発見して連れ帰る。スーホは馬とともに寝起きするほど大切に育て、馬もその愛情に答える。
 数年後、領主が娘の結婚相手を決めるべく競馬大会を開き、スーホも白い馬とともに出場、見事に優勝する。
 しかし、領主はスーホの身分が低いことを理由に結婚を認めず、銀貨を3枚渡し、さらに白い馬を渡すよう要求する。スーホは断る。
 領主はスーホを痛めつけ、白い馬を奪う。命からがらスーホは自分の家へたどりつく。
 白い馬は領主のもとから脱走するが、領主の部下が射かけた矢を受けて重傷を負う。スーホのもとに帰ってきたところで息絶える。
 幾晩も眠れなかったスーホだが、ある晩、ようやく眠りにつく。夢の中に白い馬が現れ、自分の骨や筋を使って楽器を作ってくれと頼む。
 そうしてできたのが馬頭琴である。

 未知の楽器を作れっていうのはけっこうな無茶ぶりじゃねえかなあ……。
 いや、わかるんですよ。主とともにあることを望むって。でも、たてがみとか尻尾の毛を切りとって肌身離さずとかそんなんじゃ駄目なんけ? だいたい死んでから何日たっとるねん、君。「ご主人、まず埋葬した俺(いい感じで腐敗がはじまっていると思われる)を掘り返してバラしてくれ」ってハードル高いよ。家族からも「あの子は馬を愛するあまりついに……」とか思われるよ。
 未知とはいえ、さすがに馬頭琴がモンゴル族において原始の楽器であるとは思えません。ひとつの完成形となったのが馬頭琴だとしても、それ以前から部族ごと、あるいは家族単位でさまざまな名もなき楽器がつくられていたのでしょう。そう考えれば、スーホが馬への愛情から、これまでにない楽器をつくろうと思った、と考えることもできます。とはいえ、馬頭琴を作ったスーホも実際に弾いてみて「この筋は傷んでいてちょっと……」とか思ったこともあったのではないでしょうか。
 ひとつ間違えれば妄執になりかねませんが、おそらくここで終わっているからこそ美しいのでしょう、この物語は。



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by tsukasa-kawa | 2017-12-21 21:32 | 新刊紹介

12月20日のお話

 蝙蝠について、どんなイメージをお持ちでしょうか。
 僕は蝙蝠の実物ってせいぜい動物園ぐらいでしか見たことないんですよ。正直な感想言うと、不気味だった。いや、だってさあ、本当に逆さ吊りで翼たたんで休んでるんだもんよ。怖いって。あれが不意打ちみたいな感じで飛んできたら悲鳴あげない自信がない。
 それにしても、蝙蝠はフィクションでは何か格好いい扱いをされている気がします。古くは黄金バットの正体を知っているのはコウモリだけ。仮面ライダー龍騎で最終的な勝利者になったのもコウモリがモチーフのナイト。ダークナイトことバットマンも、主人公が怖いと思うものをモチーフにしたとはいえ、スーツにモービルにと半端ないこだわりからスタイリッシュな仕上がりになっています。

 なんで急に蝙蝠の話をと思うでしょうが、いや、抜けがあってさあ……。「酸っぱい葡萄」で終わったとばかり思ってた。「スイミー」の話をしている場合じゃなかったね。仕事でわたわたしていたとはいえ、一ヵ月とか間を空けるもんじゃないね。
 そういうわけで、イソップより「鳥と獣とコウモリ」です。他に「卑怯なコウモリ」というタイトルもありますね。

 昔々、鳥族と獣族が縄張り争いをしていた。
 コウモリは鳥族が有利になると、自分の翼を見せて鳥族だと言い、獣族が有利になると羽毛のない自分の身体を見せて獣族だと言った。
 やがて、両者の間に和解が成立すると、状況に応じて有利な方にいい顔をしていたコウモリはどちらからも相手にされなくなった。
 追われる身となったコウモリは、暗い洞窟の中で暮らすようになった。

 ときどき八方美人と混同されますが、八方美人は全方位に常時いい顔をするのに対し、蝙蝠は強い方にだけいい顔をしているところが違いますかね。
 寝返りを繰り返したことで蝙蝠は双方から追いだされてしまうわけですが、しかし、世の中にはスパイだの二重スパイだのがあります。蝙蝠には獣族にはない翼があり、獣族に偽装できる体毛があるのです。その他に超音波を用いたエコーロケーションもあり、どちらの陣営に対しても、彼は自分を売りこむ武器に事欠かなかったはずでした。

 しかし、蝙蝠はどちらからも相手にされませんでした。信用できないと思われた、ということですが、これにはちょっと疑問があります。
 強い方への寝返りを繰り返したということは、鳥族についたときも、獣族についたときも、たいした活躍をしなかったか、活躍が非常に目立たないものだったということです。勢いのある方に味方したら、よほどのことをしないと埋もれるだけですからね。
 それに、目立つような戦果をあげていれば、寝返りが簡単に成立することもないでしょうし、敵にまわったときは真っ先に狙われるでしょう。かつての味方の情報を知っているわけですからね。蝙蝠自身、寝返りを成立させるために、なるべく目立たないように振る舞っていたと思われます。この行動によって、人格面だけでなく、戦力としてもあてにならないと蝙蝠は思われたのではないでしょうか。

 目立たないように振る舞うことはひとつの手です。目立つのもいいことばかりではありませんから。ですが、そのように動くならば、蝙蝠は何らかの形で成果を見せるべきでした。追いだすのは惜しいと、思わせるだけのものを。
 蝙蝠の過ちは、寝返りを繰り返したことではなく、それぞれに自分の存在を認めさせるだけの行動を起こさなかった点に尽きると思うのです。それができなければ、両者の間を行き来するべきではなかったのでしょう。



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by tsukasa-kawa | 2017-12-20 02:58 | 日常雑記

12月18日のお話

 なんとなく気が乗らないのでブログの更新をずるずるさぼっていたら、いつのまにやら12月ももう後半ですよ。新年が迫ってますよ。クリスマス? おもにフライドチキンを売っているお店に行列ができる日のことですね。僕が以前住んでいたところではそうでした。小さいころはいつかお金持ちになったらバレルで買って一人で一気食いしてやるんだなどと思ったこともありましたが、いまはまあ一食において二つも食べれば割と充分だよね。ぎりぎり挑戦できる年齢のうちに挑むべきなんだろうか、ううむ。

 そんな鶏肉談義はさておいて、どうにか前回までに10月の宿題は終えたので、11月にちょこっとやったあれこれをすませなければなりません。年内に(間に合うかな?
 本日は「スイミー」。作者はレオ・レオニ。富野作品かな?(失礼だねキミは  ではまいりましょうか。

 スイミーは全身が真っ黒い小さな魚。たくさんいる兄弟たちは、みな赤い。
 ある日、大きなマグロが現れて、兄弟たちをみな食べてしまう。スイミーだけが逃げきった。
 あてどもなく海をさまよっていたスイミーは、兄弟にそっくりな赤い魚の群れを見つけて遊ぼうと呼びかける。
 しかし、彼らはマグロを恐れて岩陰から出てこない。
 そこでスイミーは、マグロを追い払うべく、大きな魚に偽装することを提案する。黒い自分が目になると言って。
 はたしてマグロはだまされ、去っていきました。めでたしめでたし。

 僕は昔から本を読むのが好きだったのですが、そのせいか国語の教科書を読むのはそれほど苦じゃなかったんですよね。落書きはもちろんたくさんしましたが。とりあえず髭生やすよね。あと目。川端康成とか目を凶悪にするだけで悪の老魔道師っぽくなってさあ……。脱線しました。
 しかし教科書に載っていなければ読まなかったような作品というのは、40を目前にした年になって振り返ってみると山のようにあるのですが、スイミーなんかはその筆頭だと思うのですよね。だって外国の絵本だもんよ。で、本編ですが。

 大きいことはいいことだ。えっへん。
 しかし、魚って色を識別できるのかいなという疑問がありますが、おそらく自己防衛のためにカラフルな鱗を持つ個体がいる以上、そのへんの識別はできるのでしょう。では厚みについてはどうか。いくら自分より大きくても、平たい魚ではものともしないのではないでしょうか。
 スイミーたちが化けた魚の厚みは、とくに言及されていません。しかし、マグロは逃げていきました。充分な厚みがあったのか。それとも他に理由があったのか。
 気になるのはスイミーの役目です。この子は小さな魚と書かれています。たとえ化けた魚が薄っぺらかったともしても、両目の役目を果たせるとは思えません。また、左右に動きまわっていては仲間たちが混乱してしまうかもしれず、下手をすれば一網打尽に食われてしまいます。
 となれば、右か左に自分のポジションを固定し、隻眼となってマグロを威圧したのではないでしょうか。スイミーにとって、マグロは兄弟たちの仇でもあります。そうとうな眼力となったでしょう。
 そう考えると「スイミー」は団結力の尊さや、まわりと違うことも考え次第で活かせるんだ、ということを伝えるお話ではなく、敵を圧倒するのは決意であり凄みであるということを伝えるお話なのかもしれません。



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by tsukasa-kawa | 2017-12-18 23:59 | 日常雑記

新刊紹介・他

 10日ぶりです。時間のたつのは早いもので、気がついたら師走ですよ。今年中にあれとかこれとか何とか……といううちにどんどん時間は過ぎていきます。体力は年々低下する一方だというのにね! ごめんなさい、うん。

 そして、魔弾の最終巻や画集の感想、いただいています。本当にありがとうございます。いろいろなところで何度も書いていることですが、6年半もの間、よくつきあってくださいました。6年半といったら中学1年生が高校卒業しちゃってるからね。読者のみなさまにとっても長い戦いだったと思います。
 まだ書きたいことがあるといえばありますが、必要なことは書ききったという思いも同時にありまして。魔弾はこれにて完結です。あらためて、ありがとうございました。

 で、そんな感じで先月下旬から10日も過ぎていればそりゃあ次々に新刊も出ているってものでして、まずはそちらの紹介をば。
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瀬尾つかさ   いつかのクリスマスの日、きみは時の果てに消えて
          ニートの少女(17)に時給650円でレベル上げさせているオンライン

 左は先月末にファミ通文庫から、右は今月初めにスニーカー文庫からでございます。同じ人間が書いているのにタイトルがこうも両極端なのは小説の面白さのひとつでしょうね。ファミ通から出ているものはいわゆる過去に戻ってある出来事をやり直すSF、もうひとつは、うん、まあタイトル通りの話だね。興味がありましたら是非。

 さて。だいたい一ヵ月前の話なんだけど、覚えてるかな。僕は忘れていました。
 昔話のいいところは、一ヵ月前にネタにしたものでも風化しないところですね。なにせブツによっては二千年前から存在するからね!
 面の皮を鉄っぽくして、それではイソップより「酸っぱい葡萄」です。「狐と葡萄」と呼ばれることもありますかね。
 一匹の狐が、おいしそうな葡萄がツタから下がっているのを見つける。食べようとして何度も跳びあがるものの、どうやっても届かず「どうせこんな葡萄は酸っぱいに決まっている」と捨て台詞を吐いて去っていくという話です。

 台持ってこいや、台。
 同じイソップの話の中に、水が少ししか入っていない壺の中に石を次々に放りこんで水かさを増し、悠々と水を飲んだカラスのエピソードがありますが、その話とまるで対照的です。わかりやすさを求めて簡略化したものと思われますが、狐はただ跳びあがっているばかりです。台を用意する、大型の動物を誘導してその背中に乗る、石をくわえて首を振ってその遠心力で打ち落とす……。いろいろと手はありそうなものなのに。
 狐というと、おとぎ話や童話では知恵者の役目を割り振られることが多い印象ですが、この狐は正反対。愚直そのものです。

 どんなに望み、力を尽くしても手に入らないものというのは、たしかにあります。
 僕もかれこれ38年ぐらい生きてますが、いろいろなものを諦めてきました。そして、このお話のように自分にとっては必要なかったのだと考えるようにしたこともあります。もっとも、けっこうな過去になってから冷静に振り返り、あるいは他の手があったのではないか、と考えることができるようになったのも確かでして。

 この狐のお話が伝えたいことは、世の中には手に入らないものがあり、それを「自分にとって必要ない」と割り切ることで心の平安を得ることがある、というものなのでしょうか。ひとつの努力に邁進し続ける姿勢の危うさをこそ、説いているのではないか。
 ひとつのことを徹底してやり抜く。やり続ける。その姿勢を尊しとする言葉はいくつもあります。継続は力なり、がそうですし、石の上にも三年、も該当するでしょうか。ですが、それらの言葉において、正しい行動をとるのは、言うまでもないこととして考えられているのではないでしょうか。
 狐が他の手に訴えていたら、その先にはまた別のお話があったのかもしれません。



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by tsukasa-kawa | 2017-12-04 23:59 | 新刊紹介